★『宮城谷三国志』総合スレッド★
423:左平(仮名)@投稿 ★2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐
(燕王・曹宇の子)が選ばれました。

一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は
省24
424:左平(仮名)@投稿 ★2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2013年04月)


今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。

鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦
省21
425:左平(仮名)@投稿 ★2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の
要所に攻め入ることを思いつきました。
もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く
ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの
省18
426:左平(仮名)@投稿 ★2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、
器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。
とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の
軍勢を退かせたのです。
省18
427:左平(仮名)@投稿 ★2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も
正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。

とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と
省25
428:左平(仮名)@投稿 ★2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2013年05月)


今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。

ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か
省19
429:左平(仮名)@投稿 ★2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の
「滅亡」は、これからでした。

さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が
省15
430:左平(仮名)@投稿 ★2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に
加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは…
と思ったようです。
ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。
省18
431:左平(仮名)@投稿 ★2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00AAS
三国志(2013年06月) 最終回


今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ
書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。

省26
432:左平(仮名)@投稿 ★2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00AAS
続き。

比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく
許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。
ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、
やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。
省21
1-AA