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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
425:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0 [sage ] 続き。 鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の 要所に攻め入ることを思いつきました。 もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの ではありますが。 とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という 場面も。 そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた 格好になりました。 しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。 続きます。
426:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、 器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。 とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の 軍勢を退かせたのです。 しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。 当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても おかしくはないところです。 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては… という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる 相手ではないのです。 意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。 続きます。
427:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0 [sage ] 続き。 譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も 正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。 とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と 戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。 一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない) から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。 もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。 劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉 ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、 いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。 昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と 感慨にふけります。 追記。 物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。 状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。 今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで 描かれるのでしょうか。
428:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年05月) 今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。 ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か 難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。 降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。 そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。 しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い) 鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険 をも孕んでいました。 そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の 讒言によるものでした。 続きます。
429:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0 [sage ] 続き。 さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の 「滅亡」は、これからでした。 さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が 降ったと知らされます。 何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、 成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。 蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は 立ったからですが、それだけではない含みがありました。 鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。 続きます。
430:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0 [sage ] 続き。 かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に 加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは… と思ったようです。 ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。 もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に 任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。 鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の 再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが… 思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、 ということで、内紛が勃発したのです。 なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに よって、鍾会も、姜維も斃れます。 檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…
431:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00 三国志(2013年06月) 最終回 今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ 書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。 鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に 耽ります。 かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠 して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。 この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。 彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の 冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、 こちらに向かってくるというのです。 ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを 迎撃させます。 …時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。 衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。 (本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は なくなった、ということ) 続きます。
432:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00 続き。 比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく 許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。 ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、 やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。 そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで あったとされるため、できなかった)のです。 一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。 ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を 受けることとしました。 司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。 そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに 脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が つくだけでしたが。 それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。 続きます。
433:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00 続き。 劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は 驚きますが、その真意に気付いたかどうか。 愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼 少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、 劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。 劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の 影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。 もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた のですが、間に合わなかったのです。 蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。 しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。 特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた ことで、何とか守りきることができました。 続きます。
434:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00 続き。 同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。 孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問 に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ 誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。 蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ 収束することを確信していました。 しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。 かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬 昭も、それに倣うこととしたのです。 ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。 司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに… なのです。 (まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と) 続きます。
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