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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
431:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00 三国志(2013年06月) 最終回 今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ 書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。 鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に 耽ります。 かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠 して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。 この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。 彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の 冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、 こちらに向かってくるというのです。 ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを 迎撃させます。 …時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。 衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。 (本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は なくなった、ということ) 続きます。
432:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00 続き。 比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく 許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。 ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、 やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。 そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで あったとされるため、できなかった)のです。 一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。 ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を 受けることとしました。 司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。 そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに 脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が つくだけでしたが。 それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。 続きます。
433:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00 続き。 劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は 驚きますが、その真意に気付いたかどうか。 愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼 少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、 劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。 劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の 影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。 もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた のですが、間に合わなかったのです。 蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。 しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。 特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた ことで、何とか守りきることができました。 続きます。
434:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00 続き。 同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。 孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問 に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ 誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。 蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ 収束することを確信していました。 しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。 かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬 昭も、それに倣うこととしたのです。 ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。 司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに… なのです。 (まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と) 続きます。
435:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00 続き。 おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが… やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。 「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」 司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、 ひどく印象に残りました。 「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。 (そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)
436:投稿 ★ 2018/01/13(土) 19:32:31 ID:5Jm+vDrc0 人いるの?
437:投稿 ★ 2018/06/08(金) 13:37:14 ID:vj9h6Bpk0 俺がいるぞ 語ろう
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