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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
433:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00 続き。 劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は 驚きますが、その真意に気付いたかどうか。 愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼 少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、 劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。 劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の 影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。 もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた のですが、間に合わなかったのです。 蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。 しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。 特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた ことで、何とか守りきることができました。 続きます。
434:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00 続き。 同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。 孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問 に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ 誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。 蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ 収束することを確信していました。 しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。 かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬 昭も、それに倣うこととしたのです。 ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。 司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに… なのです。 (まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と) 続きます。
435:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00 続き。 おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが… やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。 「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」 司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、 ひどく印象に残りました。 「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。 (そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)
436:投稿 ★ 2018/01/13(土) 19:32:31 ID:5Jm+vDrc0 人いるの?
437:投稿 ★ 2018/06/08(金) 13:37:14 ID:vj9h6Bpk0 俺がいるぞ 語ろう
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