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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
434:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00 続き。 同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。 孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問 に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ 誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。 蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ 収束することを確信していました。 しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。 かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬 昭も、それに倣うこととしたのです。 ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。 司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに… なのです。 (まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と) 続きます。
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