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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
191:左平(仮名) 2007/05/21(月) 22:50 三国志(2007年05月) 今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う 自分を探し当てる時期にさしかかっています。 しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、 情けない限りです。 まずは、前回の続きから。 荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、 間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果 たせません。 半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど 化外の地です。 当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識 人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう 劉巴にはそう見えたということでしょうか)。 結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を 感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。 さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて です。 先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ 紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。 これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての 経験です。 幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、 曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。 劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、 諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万 一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な 忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?
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