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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
210:左平(仮名) 2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW 三国志(2008年06月) 今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。 黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両 陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。 多勢に無勢。と、なると…。 …曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。 もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの です。 とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。 ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。 ついに曹操は撤退を決めます。 当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、 失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。 かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。 そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。 そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ? と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。 劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権 に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。 長くなったので、ここで分けます。
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