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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
328:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0 [sage ] 続き。 ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、 天子を救うべく、動き始めました。 ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その 真意を確かめようとします。 司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。 曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない のです。 ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽 に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。 これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。 続きます。
329:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0 [sage ] 続き。 桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。 「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」 父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢 のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。 洛陽に戻った彼らを待っていたのは… まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、 城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し ですから、これはきついですね。 ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に ある種の危険性を感じたのが主因のようです。 続きます。
330:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0 [sage ] 続き。 曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、 近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。 庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材 さえ入手できないという有様。 さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が 進められていきます。 厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。 そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。 しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、 勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。 さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事 役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ たところで、捕縛されました。 追記。 司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。 ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。 何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が 果たしてあったのか。 何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。
331:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年09月) 今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が 生じつつあります。 祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、 まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を 予見した人もいました。 その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。 その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が 残っているというのです。 それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来 を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。 その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。 それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という ものでした。 これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に 心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。 ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ です。 続きます。
332:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の 印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの です。 恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です が、何晏もその類であった…ということでしょうか。 wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう 単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。 さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝 室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。 曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。 一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を 受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を 削ぐに至ります。 先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。 夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。 しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。 続きます。
333:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0 [sage ] 続き。 残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が 都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹 爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。 結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任 は、仲の悪い郭淮なのです。 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。 これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた 夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。 しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く 持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。 夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、 演義での創作のようです。 続きます。
334:左平(仮名) 2011/10/02(日) 12:44:26 ID:???0 [sage ] 続き。 夏侯覇が亡命した当時、蜀漢の宰相格となっていたのは、費禕でした。この数年前から病床にあった蔣琬は、そのまま回復 することなく亡くなり、費禕がその後任となっていたのです。 費禕は、司馬懿のクーデターの委細をつぶさに検証し、その是非を論じました。これは、いわゆる史論の先駆けというべき ものです。蜀漢には文化的な要素は少ないのですが、諸葛亮の『出師表』や費禕の史論があるあたり、文化不毛の国という わけでもありません。 その論は二つあります。一つは、是とするもの(司馬懿は、先帝・曹叡の遺命に基づき、国政を正した)。もう一つは、非 とするもの(先帝・曹叡は、司馬懿と曹爽に後事を託したにもかかわらず、司馬懿は、曹爽の恣行を正すことなく誅した) です。 是非はともかく、司馬懿のクーデターの影響は大きいものがありました。なるほど、クーデター後、魏の国政は正されては いる(人材登用等が適正化された)のですが、帝室たる曹氏の一部が滅ぼされる一方で、司馬氏の権力が著しく伸長したの は、魏の国体の護持という観点からは望ましくないことです。 これを危惧した令狐愚は、おじの王淩に、司馬懿を討つべきではないか、と持ちかけます。 王淩は、王允の甥です。彼は、おじが董卓を討った(それによって国体を正そうとした)ことを誇っていましたから、この 話には興味を示しました。単に栄達だけを考えるなら、司馬懿との良好な関係を保つに越したことはないのですが、王允の 甥であるという自覚が、それを許さなかったのです。 ただ、皇帝を奉ずる司馬懿と戦うには正当性の根拠となる存在が必要です。令狐愚は、楚王・曹彪(曹操の子)の名を挙げ、 彼を奉ずるべきであると主張し、配下を遣わして曹彪に説きます。 一方、王淩も、優秀な息子達のうち、頼りにしている長子・王広にことのあらましを伝え、是非を問います。四十近い壮年 の王広は、司馬懿の善政を挙げ、慎重に振る舞うべきである、と回答します。 事実上、魏の南方を任されている王淩は、かなりの兵力を持っています。その彼が、楚王・曹彪を奉じて司馬懿と戦えば、 どうなるか。なるほど、うかつな動きはできません。 王淩達は、水面下で静かに動いていましたが、その最中に、この計画の中心人物・令狐愚が亡くなります。ここから、一体 どうなるのでしょうか。
335:あぼーん あぼーん [あぼーん] あぼーん
336:あぼーん あぼーん [あぼーん] あぼーん
337:あぼーん あぼーん [あぼーん] あぼーん
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