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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
367:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年02月) 今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。 諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。 将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、 味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。 諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪 ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。 張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと 味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。 戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる 一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。 こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると 見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。 ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。 ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。 続きます。
368:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0 [sage ] 続き。 兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が 魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。 となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。 司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。 既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は 王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還 しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。 司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を 失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。 ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達 ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。 魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は 外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。 続きます。
369:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:59:36 ID:???0 [sage ] 続き。 姜維が撤退したことで、魏への脅威は、合肥を攻める呉軍に絞られました。しかし、司馬師は、まだ動きません。そう して、開戦から九十日が経過しました。 魏・呉両軍とも、そろそろ限界に近づいていました。そんな中、守将の張特が、諸葛恪に面会を求めてきました。これ は、降伏に違いない。そう思った諸葛恪は、しばらくぶりに上機嫌になります。 張特が刺客になることを怖れた諸葛恪は、それについての用心は怠りませんでしたが…。 魏の法令においては、開戦から百日が経過しても援軍が来なかった場合は、将が降伏しても連座は適用されない。自分 (張特)はもう戦うのをやめようと思うが、納得しない兵もいるので説得したい。そんなことを聞かされた諸葛恪は、 ますます勝利を確信します。 しかし、帰還した張特は自らの勝利を(少なくとも、まだ戦えることを)確信していました。諸葛恪は、自軍の損害の 大きさを隠すのを忘れていたのです。しかも、張特が降伏するものと思い込んだため攻撃が中止されました。この機会 を逃す手はありません。張特は、この間に防備を固めました。 張特にしてやられたことに気付いた諸葛恪は激怒し、攻撃を再開しますが、既に戦意を失っている呉軍には合肥を攻め 落とす力などありません。しかも、ここでついに司馬師が大軍を動かしましたから、もはや手詰まり。 諸葛恪は、撤退を余儀なくされます。 続きます。
370:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 22:02:04 ID:???0 [sage ] 続き。 諦めきれない諸葛恪は、帰還するのをためらい、屯田をしようか、などと言い出します。しかし、その軍は、あくまで 皇帝から授かった国軍であって、諸葛恪が好き勝手に扱ってよいものではありません。 このことを知らされた孫峻は、繰り返し詔勅を出させることで、何とか諸葛恪を帰還させました。しかし、いたずらに 兵を消耗した(大きな会戦はなかったが大敗に等しい)にもかかわらず、諸葛恪は凱旋したかの如く振る舞い、批判的 な人々を遠ざけました。 かつて諸葛恪は、蜀漢に仕えた叔父・諸葛亮は父・諸葛瑾に劣ると言いました。しかし、たとえ形式上のこととはいえ、 諸葛亮は自らの失敗の責を負い降格するということがありましたし、厳格だが公平な政治を行い、蜀漢の人々から畏敬 されました。それができない諸葛恪は、父に劣る、と貶めた叔父にまさると言えるでしょうか。 このような有様を、孫峻は苦々しくみていました。諸葛恪が君臣からの支持を失っていることは明らか。このままでは、 自分も巻き添えを食らう。そうならないためには…。
371:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0 [sage ] 追記。 司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中 なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。 それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、 見せ場があるように思います。 今回の張特は、三千の兵で二十万の大軍の攻撃を耐え凌いだわけですが、名将、という感じはありませんでした(まあ、 郭淮でさえ「非凡には遠い」という扱いですから、無理もないのですが)。しかし、絶望的な状況にあってなお冷静な 判断を行い、おのが職責を全うしたわけですから、ひとかどの人物ではあるのだろうな…と。 堅実な凡将・張特に敗れた、才子・諸葛恪。そう思うと、何とも劇的な話です。 おっと、今回、ケ艾が登場しました。一言でいうと、寡黙な努力家です(能力面はともかく、彼もまた諸葛恪とは対照 的な存在と言えます)。三国志の後半を彩る名将の一人ですが、その出発点は、下級官吏でした。農政の分野における 優れた見識が司馬懿に認められたことが、後の業績につながっていくわけです。ただ、下級官吏の頃に世話になった人 に謝意を示さなかった(立身する前に謝意を示すのは己を縮めるのでは、と恐れたため。後に、その家族にはきちんと 報いている)ことで、その人格を誤解されたかも知れません。 ケ艾は、司馬師に、諸葛恪の終わりがよろしくないであろうと予見しました。これを、単なる予言としてではなく、自 分への諫言(位人臣を極めた者は慎重に振る舞うべき)である、ととるところに、司馬師の器量が見て取れます。 ただ、司馬懿といい、司馬師といい、どこか、人としても温度が低い、という印象があります。道理においても、人情 においても正しい判断をしてはいるのですが…。いずれ詳しく語られるであろう司馬昭、司馬炎はどうなのでしょうか。
372:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0 [sage ] 回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に 行われるわけもなく…。 諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が 崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に 思うのも当然でしょう。 聡明で心優しい孫亮としては、心静かに先帝の喪に服していたかったのです。諸葛恪がそのことに配慮していれば、先の 大敗はなく、その名望が失墜することもなかったのでしょうが…。 そんな孫亮に、孫峻が、ある内奏をします。「諸葛恪を慰労する宴を開いていただきたい」と。何か含むところがあると いうことは、分かります。が、孫亮は、詮索はしませんでした。 孫峻が何をしようとしているのか。多少の見当はつきますが、その全容を知るのは、孫峻のみといってもよいでしょう。 ともに後事を託されたはずの滕胤らも、知る由はありませんでした。 その頃、諸葛恪の周囲では、変事が相次いで発生していました。「捜神記」等で博学ぶりを示すエピソードのある諸葛恪 です。用心はしていたのですが… 続きます。
373:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0 [sage ] 続き。 その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何 か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、 なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた のでしょうか。 孫峻が、諸葛恪を出迎えました。立ち居振る舞いは、あくまで丁重そのもの。一見すると何ら怪しいところはないのです が…それでも、何か違和感が拭えません。 こうして、宴が始まりました。 しばらくして、皇帝・孫亮が退席。さらに孫峻が席を外します。厠に入った孫峻は、ここで衣を着替えます。当時の習慣 としては普通のことですが…ここで彼は、長衣から短衣に着替えました。その、意味するところは何か。 席に戻った孫峻は、突然、諸葛恪に襲い掛かります。召し捕ると言ってはいますが、はなから斬るつもりでした。斬った 後、変わらぬ様子で酒を飲みますが、その後の指示は、なかなかどうして、抜かりありません。 続きます。
374:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0 [sage ] 続き。 ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を 遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。 孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。 このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮 は、引き続いて、実力者に翻弄されることになります。 一方、魏では…。司馬師が大権を掌握しているわけですが、諸葛恪とは異なり、これといった失策はありません。です が、皇帝が軽んじられているのでは、と思い、密かに反発している人々がいました。 若くして呉にも名を知られる名士となっていた李豊も、その一人でした。かつて司馬懿と曹爽とが対立していた時には 両者から距離を置いていた彼は、その後もまあまあ順調な官僚生活を送っていたわけですが、呉でのクーデターの話を 知り、魏でも同様の(専横の振る舞いのある実力者を排除し皇帝に大政を奉還する)ことはできないか、ということを 考え始めました。仕事ぶりは不まじめ(欠勤が多い。ただし業務はきちんとしているので無能ではない)ですが、勤皇 の志はあるのです。 このままでは魏は危うい。そういう危機感を持った、皇后の父・張緝や夏侯玄といった人々が、司馬氏を排除すべく、 水面下で動き始めました。
375:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0 [sage ] 追記。 今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと 殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。 遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った 息子達はあっさり殺されている)のは、少し物悲しいものがあります。 それにしても、魏の皇帝・曹芳は影が薄いです。この頃にはとっくに成人しているはずですがいまだに幼弱扱いされて いるのが、何とも。
376:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年04月) 今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。 李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう いった危機感を持つ者同士での連携を模索していたのです。 李豊・李韜父子も、張緝も、才覚のある人物です。その危機感は、まんざら妄想ではありません。李韜の言葉に迷いがない のをみてとった張緝はこれを了承します。 李豊は、さらに宦官達とも話をつけました。後漢の頃ほどではないとはいえ、宦官達の中には不正を働く者もおり、彼らは 司馬師による処断を恐れていましたから、この話に乗ります。 こうして、李豊は、外戚と宦官とを抱き込むことに成功しました。あとは、帝室に近く、名士でもある夏侯玄ですが…なぜ か、やや消極的です。ここでは触れられていませんが、かつて司馬師とは義兄弟(司馬師の最初の妻が夏侯玄の妹)だった ことが影響していたのでしょうか。それとも、単に危機感が薄かったのでしょうか。 優れた学識と文才の持ち主ではありますが、権力闘争を勝ち抜こうとする胆力が欠けているのでは…。ともあれ、そのこと に、李豊は不安を抱きます。かといって、この計画が成った後、事態を収拾するには、夏侯玄の存在が不可欠だとも思って いるのです。 さて、この計画ですが…先の王淩もそうですが、一つ問題があります。協力を求める相手が多いのです。「事は密をもって 成り、泄をもって敗る」と言いますが、手広く声をかけると、当然ながら異心を抱く者もいるわけで…。 続きます。
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