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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
379:左平(仮名)@投稿 ★2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0 [sage ]
続き。
「まずは、掃除、掃除」
司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と
いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。
省20
380:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年05月)
今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。
司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を
省21
381:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:14:41 ID:???0 [sage ]
続き。
それから程なく、多くの高官達が集められました。ここで司馬師が、皇太后・郭氏からの、ある文書を読み上げます。それは、
皇帝・曹芳が皇帝にふさわしくないため、もとの斉王に落とすべきである、と命ずるものでした。
…司馬師は、自分ではなく、皇太后が皇帝の廃位を言い出したという体裁をとったのです。その影に司馬師がいることはみな
省21
382:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:16:18 ID:???0 [sage ]
続き。
さて、皇帝を廃したとなれば、当然に、新たな皇帝の擁立が必要になります。では、たれにするか?
司馬師は、彭城王の曹據(曹操と環氏の子。曹沖、曹宇の兄弟)がよいと考えました。曹操の子ですから、既にかなりの高齢
でしたが、王として大過なく過ごしてきた思慮のある人物です。しかし、これは皇太后に反対されます。彼女は、曹操の孫・
省24
383:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:18:22 ID:???0 [sage ]
続き。
かくして、曹髦は洛陽に着いたわけですが、即位するまでは人臣であるという姿勢を崩しませんでした。先例を持ち出されても
己が信念を通したのです。
その姿勢に、皇太后は、あらためて好感を抱きます。そして、多くの群臣達もその挙止の清々しさを歓迎しました。曹髦の治世
は、魏の中興を予感させる、上々の滑り出しとなりました。
省24
384:おばら@投稿 ★2012/06/25(月) 17:07:57 ID:???0 [sage ]
おお!超久しぶりに来てみれば、左平さんがいらした!!
秦漢三国晋談義で盛り上がったのが懐かしいですねぇ・・・
もう10年経ったかw
385:左平(仮名)@投稿 ★2012/07/01(日) 03:56:22 ID:???0 [sage ]
おばらさん、お久しぶりです。
>もう10年経ったかw
そういえばもうそんなになるのですね。早いものです。では、今回のレポ?を。
386:左平(仮名)@投稿 ★2012/07/01(日) 03:58:45 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年06月)
今回のタイトルは「寿春」。王粛の予言通り、東南に兵乱が発生します。王淩の件からはまだ数年。この頃の司馬氏にとっては、
東南は不祥の地ですね。
省24
387:左平(仮名)@投稿 ★2012/07/01(日) 04:01:47 ID:???0 [sage ]
続き。
二人の決起には、皇帝をないがしろにする司馬師を除く、という大義名分がありました。また、そのために、偽造とはいえ皇太后の
詔を持ち出しました。それでも、決起する際に、人々を軟禁状態に置いたうえで誓いを立てさせる等の強行手段を取らざるを得ない
あたり、この決起の危うさを物語っています。
とはいえ、数万の兵を擁した、大規模な内乱の発生です。この頃、司馬師は、目の上の瘤を切除したばかりで療養中だったのですが、
早速、対応に悩むこととなります。
省22
388:左平(仮名)@投稿 ★2012/07/01(日) 04:03:40 ID:???0 [sage ]
続き。
傅嘏は、曹髦を「こざかしい」とみていました。司馬師に近い彼からすると、親政に意欲をみせる(必然的に、遠からず司馬師と
対立することになる)曹髦は、好ましい存在ではないのです。うかつなことをすると、司馬師不在の間にクーデターを仕掛けるの
ではないか。そうなると…。
それゆえ、留守の役割は重大です。司馬師は、これに弟の司馬昭をあてることにしました。この頃、司馬昭は、蜀漢に備えるべく
西方に駐屯していたのですが、陳泰に任せてよいと見極めがついたので、呼び戻すことが可能になったのです。
省20
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