★『宮城谷三国志』総合スレッド★
383:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:18:22 ID:???0 [sage ]
続き。

かくして、曹髦は洛陽に着いたわけですが、即位するまでは人臣であるという姿勢を崩しませんでした。先例を持ち出されても
己が信念を通したのです。
その姿勢に、皇太后は、あらためて好感を抱きます。そして、多くの群臣達もその挙止の清々しさを歓迎しました。曹髦の治世
は、魏の中興を予感させる、上々の滑り出しとなりました。

しかし司馬師は、曹髦の聡明さに、いささか危惧の念を抱いていました。若年にして聡明と言われる者は、得てしてさわがしい
ものですが、それが自分に向かうようなことになれば…。
鍾会が、曹髦を陳思王(曹植)・太祖(曹操)にたとえたことも気がかりです。

危惧のもとは、他にもありました。王粛が気になる予言をしていたのです。「東南に兵乱の気あり」。恐らく文欽が叛くという
ことは推測されるのですが…。

追記。
司馬師の苦悩が伺えます。帝位をも左右できるほどの実力者とはいえ、その正当性を保つためには、かくも細心の注意を払わねば
ならないのです。
もっとも、皇帝の側からみれば、何を勝手なことを…というところではあるのですが。

ところで、廃位された曹芳は、たれの子だったのか。司馬師は、うわさだと前置きした上で、曹楷(曹彰の子)の子らしいとして
います。曹叡が曹楷と親しかったからその子を養子に迎えた…というわけですが、なぜそれを明らかにしなかったのか。謎が残り
ます。
曹彰・曹楷父子の評判が悪かったから…ということですが、曹楷の子であれば、確かに帝室の一員ですし、曹叡の子の世代になる
ので、何も問題はなさそうなのですが…。
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