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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
432:左平(仮名)@投稿 ★2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00
続き。
比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく
許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。
ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、
やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。
そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで
あったとされるため、できなかった)のです。
一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも
あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。
ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を
受けることとしました。
司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。
そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに
脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が
つくだけでしたが。
それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。
続きます。
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