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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
182:左平(仮名) 2006/10/04(水) 22:28 三国志の第五巻が出ましたので、先週、購入しました(第五巻の時に第四巻と 共に広告載せるのなら、一緒に出しても良さそうな気もしますが…)。 土曜に買ったので、即日読了したのですが…あれ?「張繍」の回、典韋の最期 が詳しく描かれてる…。
183:關龍白 2006/10/10(火) 15:43 「張繍」の回は全部で33ページもありますね。 他は28,9なので追加したんじゃないでしょうか?
184:左平(仮名) 2006/10/15(日) 21:15 >追加したんじゃないでしょうか? 恐らく、そうでしょうね。しかし、いしいひさいちキャラの藤原センセならともかく、宮城谷作品で増補改訂 があったというのは、なかなか面白いものです(とは言え、雑誌への連載時から読んでて、かつ、その記憶が あるのは本作と風は山河よりくらいなんですけど)。 今回のタイトルは「長阪」。 前回のラストでちらりと司馬懿の名が現れましたが、今回、前半部分でそのあたりの経緯が描かれてました。 兄・司馬朗の友人である崔琰(直言が好きですな、この御仁)に高く評価された彼は、この頃に出仕。病と 佯っていたところ刺客に襲われ…といった『晋書』でのエピソード(妻の張春華のことは、今回は書かれて ません)を書きつつも、周辺の人間関係等からこれを疑問視されています。 この時点では地味な一官僚たる彼ですが、先祖には名将(巴蜀を制した司馬錯等)もいるだけに、文武兼備 を自負しています。 曹操による荊州攻略に先立ち、まずは、涼州の鎮撫がなされます。馬騰・韓遂が相争うのを鍾繇が調停し、 続いて、張既の説得により、馬騰が入朝します。これにより、一応収まります。欲を言うと、曹操にとって ベストだったのは、馬超をも入朝させて涼州の私兵軍団を解消することでしたが、さすがにこれは酷という もの。こちらは、しばし後回しとなります。 張既の若い頃のエピソードが紹介されています。彼の才を見出した功曹・游殷とその子・游楚です。游楚 の方は、あまり曹操好みという感じではない鷹揚な人物という扱いですが、なかなかの器量を持った親子 です(游殷を死に追いやった胡軫は、三国志全人名事典では董卓配下の胡軫とは別人という扱いですが… どうなんでしょう)。 曹操の圧力が迫る中、劉表は世を去ります。父の危篤を知った劉Kは直ちに駆けつけますが、蔡瑁・張允に 阻まれます。そして、劉Nが跡を継ぎ、曹操に降る決断を下します。 劉Kを阻むのは演義等と共通しているのですが、ここでの蔡瑁・張允の描かれ方は、かなり異なります。 蔡瑁は、荊州のため、「政治的判断として」劉Kを阻みます。そこには私心はなく、去り行く劉Kに対し 「どうかお宥しを…」と詫びてさえいます。蒼天での蔡瑁も善人キャラでしたが、こちらはそれにプラス して忠臣キャラも入ってます。 一方、蒯越は、器量は相当なものですが、さすがに老いたか、乱を好まぬ人物に。 劉Nは、器量については父には少し劣ると言えますが、下手な妄想は抱かない分、まっとうな人物です。 しかし、この決断により、劉備達は見捨てられた格好になります。ここで荊州を乗っ取っては、という声も あがりますが、劉備は、ここでも鮮やかなまでに捨ててみせます。 民が付き従うのは、徐州でのことがいまだに荊州では意識されている―劉表の政策の賜物でもある―ため、 ということからすると、必ずしも劉備の魅力によるものではないわけですが…しかし、それでも劉備に何か 魅力を感じるというのはなぜでしょうか。 ラストは、三国志ファンご存知の趙雲の大活躍。曹操をも感嘆させる奮闘振りですが、関羽以外にも「劉備 には過ぎたる臣」がいたことを、曹操は不思議に思います。
185:左平(仮名) 2006/11/19(日) 21:46 今回のタイトルは「魯粛」。 タイトル通り、今回の主役(?)は魯粛です。まずは、その来歴から。…「〜の人」というのは 史書にあるわけですから、調べれば分かるとはいえ、徐州の人、ということを強調していたのが 印象的です(反・曹操にして親・劉備というのにはそれなりに理由があったということ。徐州の 主としての劉備の政は、少なくとも悪いものではなかったみたいです)。 ゲームでは孫権配下の参謀の一人ってな感じの扱いですが、ことさら学問に励んだという様子は なく、人を集めて教練を行う等していますから、家が裕福でなかったら甘寧みたくなってたかも 知れません。 しかし、数百の衆を集めて教練を施し、周瑜の訪問をうけて倉一つぽんと渡すってんですから、 傍目には単なる放蕩息子とみられるのも無理はありませんね。 周瑜とはたちまちにして意気投合。子産・季札にたとえられる程の仲となりますが、魯粛がその 才を存分に輝かすには、それからしばらくの歳月を要します(何だかんだ言っても袁術の虚名が なお大きかったこと、周瑜に【いくばくかの】中央志向があったこと、孫策がとかく武人偏重に なりがちであったこと等、理由はいくつかあります)。 魯粛が劉曄の誘いをうけて北へ向かおうとした時、周瑜が懸命に引き止め、孫権に立ち会わせた ことで、埋もれかけた才が世に現れます。 孫権に語った内容は、現状を踏まえつつ、覇権を得るための策(献帝を義帝、曹操を項羽、孫権 を劉邦に喩えてます)。中央の高位に色気を持たず、思想にいらぬ装いをしていない自由人・魯 粛の面目躍如の場面です。 そんな魯粛にこのたび、荊州の偵察(等)という使命が下ります。劉備という奇才にピンときた 魯粛は、彼に、孫権との盟を勧めます。 諸葛亮のGOサインも出て、ここに、一つの流れが生じました。 最後は、諸葛亮と孫権との対面。若くして一勢力の長となった孫権からすると、親ほど年が違う というのに未だに領地を保ち得ない劉備の器量に対し、どうしても疑いを持つのですが、そこを どのように説得するか。 ここで、劉備陣営に一つの動きがあります。劉備に諸葛亮を勧めた徐庶が去ったのです。母が捕 らえられたとはいえ、少し時間が経ってから去ったというところに、彼の複雑な心境が見え隠れ しています(龍【諸葛亮】を見上げつつ、母とともに地を行く徐庶。千載の後も名を残すことと なる偉才と自らを比べ、悲観したのでしょうか。幅広く人材を活かすことができない点に劉備陣 営の難しさがありますが、曹操とて、最初は小勢力からのスタートでした。何が違っていたのか …)
186:左平(仮名) 2006/12/10(日) 22:36 [sage] 今回のタイトルは「水戦」。 もっとも、タイトルにある戦闘自体は、今回はありません。前回のラスト、諸葛亮が孫権と面会する ところから始まります。 諸葛亮の弁舌そのものに対しては、孫権はやや冷ややかな感想を抱きます。しかし、ここで曹操と戦 わないことには、父・兄の偉業が霞む。 勝算は薄いが、戦わぬわけにもいくまい。しかし、衆議にかけ、群臣達の総意をまとめないことには、 如何ともしがたい。 張昭の説く和睦それ自体は、決して間違いではない。しかし、群臣達が賛同するのは…。孫権が真に 開戦を決意したのはこの時かも知れません。 孫権は、周瑜・魯粛、そして程普に指揮を委ねます。ここは妥当な判断でしょう。敵は大軍なれど… 周瑜には、勝算がありました。劉備勢の力を借りるまでもありません。 ただ、欲をいうと、周瑜はこの戦いに劉備を巻き込んでおいた方が良かったのかも知れません。彼を 完全に外したことで、劉備はこの戦いの後、自由に兵を動かせる状態になったわけですから。 ただ、曹操にとっては、既に戦いは始まっていました。それも、自軍にかなり不利な状態で。そう、 疫病の蔓延です。 郭奉孝があれば…。曹操の嘆きがここで聞かれるとは、正直意外でした。 軍の指揮をとるのは華歆。人格識見ともに優れた人物ですが、兵略には長じていません。ただただ、 数で押すしかない状態。 一体、どのような赤壁の戦いになるのか。
187:左平(仮名) 2007/01/20(土) 22:28 [sage] ここのところ仕事の方がバタついてまして書き込みが遅くなりました。…それはともかく。 今回のタイトルは「赤壁」。言うまでもなく、あの戦いが描かれるわけです。 曹操と周瑜の艦隊が接触。いきなりの水上戦から始まります。蒼天では曹操が食中毒でダウンしてました が、こちらでは健在につき、しっかりと采配を振るってます。 水上では孫呉有利とはいえ、決して一方的ではない、水戦らしい戦いが繰り広げられており、何とも絵に なる場面でした。 本来の構想であれば、長江を埋めんばかりの大軍で殲滅するところでしたが、疫病により相当数の軍船を 焼いた(それでも数では孫呉を圧倒しているのですが)ため、なかなかに苦戦。下流から攻めてきている というのに、巧みな操船技術で曹操軍を翻弄する周瑜の力量は確かです。 危うい場面もありましたが、確かな状況判断に基づき死地を回避した曹操。戦いは、水上から陸上に移り ます。 水上では有利にことを進めた周瑜ですが、陸に上がられてはなかなか手が出せません。攻めあぐねた周瑜 は、やむを得ず、劉備を使うこととします。 といっても、先に劉備の助力を断っているわけですから、いかに感情を面に出さない劉備とはいっても不 快感はあります。さて、どうするか。 …劉備は動きました。諸葛亮の、高度な政治的判断に基づいて。実は、周瑜もまた、劉備が曹操と本気で 戦うなどとは思っていなかったのです(これにより曹操に動きを見せれば隙も生まれるだろう、という判 断。長期戦になれば孫呉不利は明らかでしたからね)。 さて、次の手は…。 ここで黄蓋登場。ビジュアル面の記述は全くないのですが、蒼天のもので想像してもいいような忠魂ある 武人です。風向きのことも書かれてましたが、本作でも、火計の主眼は、偽りの投降をした黄蓋が曹操軍 の奥深くに侵入することでした。 とはいえ、この策のポイントとして、「曹操は猜疑心が『薄い』」という点が挙げられているのが、他 の三国志とは違うところ。確かに、本作での曹操は、篤実さとか堅実さというところが強調されてます からね。 そして、ついに決行。火計が成功し、水上の軍船はもとより陸上の陣営までも焼き尽くすそのさまは壮絶 の一言ですが、ページの下の方だったからか、ビジュアル面の派手さの割に、以外に地味な印象を受けた のは私だけでしょうか。 ただし、曹操は、これもまた直前に回避。周瑜は、戦勝に酔う間もなく次の戦いに臨みます。曹操を討た ないことには、真の勝利とはいえないからです。
188:左平(仮名) 2007/02/18(日) 23:44 [sage] あー…精神面では幾分落ち着いたのですが、年度末近くでまだバタついてる…個人的な事情はともかく。 今回のタイトルは「江陵」。赤壁後の、荊州をめぐる曹操vs孫権の戦いがいよいよ本格化してきました。 黄蓋の捨て身の策により、陣営を焼失した曹操は、急ぎ華容道をひた走ります。とはいえ、かつての徐栄 との戦いの時もそうでしたが、あまりの負けっぷりに、さすがの曹操も茫然自失とする場面も。 ここで、虎豹騎を率いる曹純の冷静さが光ります。前途が悪路であること・劉備が追跡していることを把 握するや、的確な指示を下し、みごと曹操の退却を成功せしめたのです。 ここで曹操が討死すれば天下の趨勢はまた混沌とするところでしたから、その働きは極めて大きいものが ありました。 いったん北帰する曹操は、要衝・江陵の守備を、曹仁に託します。彼で駄目なら諦める。曹操をしてそう 言わしめた曹仁、既にしてかなりの将器となっています(反董卓の挙兵の頃は単なる暴れ者だったのが、 見事な成長を遂げている、というように絶賛されてます)。 その彼を補佐するのが、賢臣・陳矯と、猛将・牛金(!)。 曹操を討ち漏らした周瑜は劉備の不実に怒りますが、いつまでも怒る余裕はありません。直ちに次の作戦 に移ります。 ここでは、甘寧、呂蒙らの活躍が光ります(一方で、甘寧と淩統の微妙な関係にも言及あり)。徐々に江 陵包囲網を整えた周瑜は、ついに、江陵の攻略に臨みます。 要衝ながら江陵の兵力は以外に少なく、いかに篭城戦とはいえ、曹仁は劣勢に立たされます。この時、陳 矯はかつての陳登を思い出すのですが、陳登と曹仁とは、その将器の質にやや違いがあります(ともに名 将なのは確かですけどね)。 少数精鋭を以って敵の気勢を削ぐべく、牛金に出撃を命ずる曹仁。臆することなく受諾する牛金。相当の 胆の持ち主である牛金ですが、多勢に無勢。包囲され、このままでは…その時!
189:左平(仮名) 2007/04/15(日) 22:52 (2007年03月分) 個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。 今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。 まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、 いかばかりか。 何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本 気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。 陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが… しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達 の救出に成功したのでした。 いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹 仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも 劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。 周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥 の遺産が実によく機能したのです。 類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。 そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及 されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。 結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと はいえ、思うような結果は得られませんでした。 一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに 吸収されかねないですからね。 劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から 離れることとします。 他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。 ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい? コンビで攻略に挑みます。 ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。 さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。
190:左平(仮名) 2007/04/16(月) 23:06 (2007年04月) 今回のタイトルは「巡靖(立+ヨ)」。諸葛亮の導きもあり、捨てることで名声を得てきた劉備が徐々 に変貌するさまが描かれます。このタイトル、二勢力にとっての、という含みがあるみたいです。 今回の話は、武陵攻めの続きから始まります。趙雲自ら城壁をよじ登り、ついに城内に到達。それと同 時並行で関羽・張飛が突入。かくして、武陵は陥落。太守の金旋は倒されます。 趙雲が徒歩で戦う姿はなかなか見られないだけに、面白い場面です。糜芳をして「趙雲はかすり傷一つ 負わないのではないか」と言わしめるあたり、宮城谷氏も趙雲のイメージを崩すことはなさそうです。 突入時にも「常山の子龍である。かかってくるか」と、台詞に!がつかないあたり、冷静沈着な武人と して描かれています。 その後の場面においても、趙雲の識見の確かさをうかがわせます(一方、糜芳は、自らの力量の乏しさ が分かるがゆえに苛立っているように見うけられます)。 さて、戦後処理。関羽が太守代行となったことに不満を示す糜芳を趙雲はたしなめ、一方で、内応者を 探します。その内応者は、城内突入時には死んでいた兵士達かと思われましたが…その首謀者と思しき 人物とは、実は廖立でした。劉備と諸葛亮が武陵を攻めるのに時間をかけたのには、このような側面も あったというわけです(単なる力攻めでは人心は掴めないし、戦闘の結果、味方になりうる人材を喪う 惧れがあった)。劉備のもとにも、徐々に人材は集まってきつつあります。 そして、続いては長沙。親曹操ながら、その支援が期待できないことは分かっている太守・韓玄は、劉 備からの使者(何と!簡雍がここで登場です!)と対面します。 簡雍は、不思議な使者でした。降れと脅すわけでもなく、利をちらつかせるでもなく。何しに来たのだ と思いつつも、そんな簡雍の主である劉備の力を認め、抗戦することを諦めた韓玄。「演義」とは全く 異なる結末となりました。その後、韓玄がどうなったかは全く言及されていませんが、以前の黄祖と同 様、なかなかの人物という印象が残ります。 このような結末となったため、ある重要人物の登場場面がありませんでした。約十年後にはかなり重要 な存在となる彼をここで出さないとなると…どういう形で登場させるのでしょうか。もっとも、案外、 次回あたり名前だけポッと出すのかも知れませんが。 続いて、桂陽・霊陵も降し、劉備は確かな足がかりを築きました。真の意味で劉備が一勢力としての道 を歩み始めたのです。 さて、孫権との戦いに気を取られていた曹操も、この頃になると荊州南部の情勢が気にかかる様になっ てきました。とはいえ、江陵にも十分な兵を与えていないことからも分かるように、余裕はなし。そこ で曹操が選んだ人材とは…劉巴! かつて孫堅の遺骸を引き取り、後には張羨を動かして劉表と戦った桓階をして自分以上の人物と言わし めたあたり、大物感があります。 名士・劉巴が荊州南部の説得に動いていることを知った諸葛亮は、彼の捕捉を考えます。使者として各 地を巡っている以上、大人数ではないはず。とはいえ、扱い方を誤ると…というところがあるだけに、 どのようにして捕らえ、迎え入れるのか。
191:左平(仮名) 2007/05/21(月) 22:50 三国志(2007年05月) 今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う 自分を探し当てる時期にさしかかっています。 しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、 情けない限りです。 まずは、前回の続きから。 荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、 間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果 たせません。 半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど 化外の地です。 当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識 人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう 劉巴にはそう見えたということでしょうか)。 結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を 感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。 さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて です。 先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ 紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。 これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての 経験です。 幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、 曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。 劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、 諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万 一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な 忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?
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