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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
192:左平(仮名) 2007/06/17(日) 09:57 三国志(2007年06月) 今回のタイトルは「養虎」。ここにきて、益州が注目の対象になってきました(今回、曹操は出番なし)。 劉備が呉に来訪。強運の英雄(好意を持たない者からみれば悪運の強い梟雄)・劉備の扱いを巡り、呉の 内部は喧々諤々の論争が起こります。 抑留すべしと主張→呂範、周瑜 活用すべしと主張→魯粛 ともに、劉備がひとかどの器量の持ち主とみているからこその真摯な主張なわけですが…ここでの孫権は、 後者を採ることとしました。兄の後を継いで以来、ここまでこれといった挫折もなくきているだけに、鷹 揚なところを見せたかった…というところもあるのかも知れません。 しかし、この邂逅、(少なくとも劉備にとっては)益あるものではありませんでした。 劉備は、孫権に対し、抜きがたい不快感を抱いたのです。曹操とは異なり、欺瞞が感じられる、と。後年 のことを考えればあり得ないではないのですが、ちょっといきなりのような気も。 孫権の妹が劉備との結婚を心底嫌がっている(確かに、いくら美人でもこれでは冷めますわな…)という のも、その不快感をさらに強めることに。 結局、用事が済んだら、逃げるように帰っていきました。 劉備が陳登と許レとを評したエピソードからみると、表には出さないけど、結構激しい気性の持ち主でも あるわけですし、人物鑑識眼もなかなかのもの。その劉備がかくも孫権を嫌ったという時点で、この同盟 なるものは危ういものだった…。 主君が劉備を帰したことを知った周瑜は、自らの大計を急ぎ実行するべく、行動を起こします(曹操・劉 備が大規模な軍事行動を起こせない今のうちに…ということ)。 孫権の承認も得て、意気揚々と帰途についた周瑜でしたが…突如として世を去ります。曹仁との戦いで重 傷を負ったとの記述はありましたが、何とも急な死でした。 歴史を大きく動かした赤壁の勝利。そのために世に現れた、一つの奇跡。孫権の言葉も含め、最大級の賛 辞が並びます。 志半ばにしての夭折。一方で、千載の後までも語られる偉業。無念さと充足感が交錯します。 ともあれ、大器・周瑜の死により、その大計―益州を併呑し馬超と結んで曹操を多方面から撃破―は挫折 します。 しかし、諦めきれない孫権は、益州を攻めるべく孫瑜を動かします。この際、劉備には何らの事前連絡を していないあたりが、まだまだ甘いところです。 孫瑜を通さず、一戦交えることさえ辞さない劉備。はて、どのように収拾するのか。
193:左平(仮名) 2007/07/17(火) 22:26 三国志(2007年07月) 今回のタイトルは「龐統」。孔明とはかなりタイプの異なる偉材の登場です(ちなみに、容貌への言及は なし)。 益州を獲るべく孫瑜を西に遣わした孫権。これに対し、劉備は関羽・張飛を遣わしたことで、あわや全面 対決の様相を呈します。 が、しかし…。劉備の書状(低姿勢に終始)を受けた孫権は、ここで兵を引くよう命じます。訝しく思う 孫瑜ですが、良将たる孫瑜は、主命に背くことなく引き返します。 かくして、劉備はやすやすと江陵を確保。益州への道は、劉備がおさえることとなりました。孫権も後で 地団駄を踏んだのでしょうが…ここは劉備の勝ちでしょう。 我欲を剥き出しにしたといえる劉備の姿に、魯粛も軽く失望します。しかし成長した呂蒙の言葉をうけ、 思い直します。 人は、変わり得るもの。親・劉備派とみられる魯粛も、そう単純な存在ではありません。 ちなみに、呂蒙と魯粛の話の中で、関羽の人となりが語られています。春秋左氏伝を愛読した関羽は、儒 教的な正義観とはいささか異なるものを持っているようです。その思いは強烈で、漢朝にも、(漢帝を奉 ずる)曹操にも屈しません。いや、王朝的なシステムの構築を図りつつある劉備にさえも、どこか一線を 引いているのでは…とも。 高島氏でしたか、三国志における関羽の存在は巨大であると語っておられましたが、宮城谷氏もその図式 を描いておられるようです。 ここで、龐統が登場します。自己顕示欲が強く、毒舌家でもある彼は、呉の偉材(雇邵、陸積、全N)に 対してもかなりな物言いをしますが、それがかえって好かれるという得なキャラです。 とはいえ、はじめ、劉備は彼のことを気に入らなかったわけですから、人の見方というのは複雑ですね。 潘濬(清廉のみならず情義も併せ持つ、劉備好みの名臣。とはいえ、陳登もそうですが、そんな彼らが劉 備のもとを離れなければならないというのもまた世の習いか)のことも語りつつ、今回はここまで。 次回は、久しぶりに曹操のことが語られるようです。
194:左平(仮名) 2007/08/13(月) 23:54 [sage] 三国志(2007年08月) 今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。 建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない だけに、曹操に目立った動きはありません。 内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態 とみると、動けないのも無理はないところでしょう。 それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、 いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。 南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに 加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。 速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。 いや、そればかりではありません。 軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見 を採用します。結局、それが大正解でした。 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた のか。 そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…? しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。 ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。
195:左平(仮名) 2007/09/22(土) 23:24 三国志(2007年09月) 今回のタイトルは「雨矢」。対馬超戦の序盤・渡河作戦の顛末などが描かれます。 前回から既に対馬超戦に入ってはいるのですが、曹操自身が臨むのは今回から。まずは、その深謀遠慮が 語られます。 内に外にとにかく忙しい曹操にとって、頼りになるのは名臣のみにあらず。賢婦人・卞氏のことを忘れて はならないでしょう。(途中までですが)こたびの遠征に連れて行ったのもそのため。彼女は、夫の期待 にみごとに応えます。 それだけではありません。愛子・曹植も同行します。彼が類稀なる文才の持ち主であるということは既に 分かっているだけに、夢想に陥らないよう、現実の戦場を見せておく必要があると判断したからです。 ただ、曹丕はこのことに不快感を示します。またしても留守を任されたことで己が武名をあげる機会を逸 したためです。 それ自体は、曹操から信頼されていることの証といえるのですが…ここではまだ語られないとはいえ、後 のことを思うと、少しばかり影が差しているような。 また、曹丕の正室・甄氏は、義母を気遣う孝婦なのですが、義母には少し劣る(ごく簡単にいうと、大家 族の中で育ったため寂しがり【義母を気遣うのもその故】なところがあり、胆力が弱い)ようです。 本作においては、養祖父・曹騰から書かれていますから、曹操が三代目。『重耳』や『風は山河より』と 比較すると…曹操以降は、さて? 蛇足ながら、村上氏の挿絵、普段はやや三枚目的な感じのものが多いのですが、今回はまっとうな美女 (おそらく甄氏)でした。こうしてみると、甄氏の描かれ方って作風が出るようですね。 鍾繇の治績を確認し、潼関に着陣した曹操。もちろん、既に作戦は考えています。徐晃・朱霊もその意図 をしっかりと読み取り、適切な動きを見せます。 ここで馬超側の意見は分かれます。渡河させまいとする馬超と渡河途中を叩くべしとする韓遂。ここでは 馬超の方が正しかったわけですが…韓遂の考えにも一理あるだけに難しいところです。 かくして、渡河作戦が開始されます。それを察知した馬超は手勢を率いて急行。西方の精鋭達がどっと襲 い掛かってきます。 曹操側も精鋭揃いですし、名将・張郃もいるだけにたやすくは崩れませんが、攻撃は激しさを増す一方。 タイトル通り、曹操に向かって雨の如く矢が降り注ぎます。 ついに、曹操の身を気遣った張郃・許褚によって、曹操は後方に引きます(というか、後方に連れて行か れます)。 ただ、馬超にも抜かりはありました。韓遂達との連携がいまひとつとれていないのです。戦いを仕掛ける のは馬超側ですが、気がつくとじりじりと押されている状態。和議を持ちかけるなど、焦りの色が見られ ます。 と、なると…。ここで賈詡の登場。次回は…
196:左平(仮名) 2007/10/29(月) 21:23 三国志(2007年10月) 今回のタイトルは「馬超」。対馬超戦の決着がつきます。 兵糧の問題もあり、このまま戦い続けていても埒があかない。とはいえ、利無くして退くこともできない…。 ジレンマに陥った馬超は、ここで韓遂を使うことにしました。韓遂が曹操と面識があることから、曹操との 面会の場を設けることを求めたのです。 2対2。こちらは馬超と韓遂。向こうは曹操と誰か…。さすがに軍閥の長であるだけに、それ相応の思慮も ある馬超ですが、ここは己が武勇で何とかけりをつけようとしたのです。 しかし、馬超と韓遂の間には、互いを軽んずる、いや〜な雰囲気が。これでは…。 そして、面会の場。向こうは一騎。よし、いける…そう思った馬超ですが、曹操撃殺は成りませんでした。 何故なら、曹操の傍には、徒歩ながら剛勇無双の許褚がついていたからです。韓遂との連携が成らぬ以上、 許褚に気を配りつつ曹操を襲うことは不可能でした。 そんな馬超などいないかの如く、曹操と韓遂の話は弾みました。才略にも機知にも富んだ両者のことです。 もしかしたら…両者は、敵ではなく盟友として、あるいは上官と部下として…と思わされる場面です。 しかし、一点、大きな違いがありました。韓遂にとっては、中原の天は狭いのです。「銅雀台に登れば天 は低くなる。あの男でもそれが分からぬか」…何とも意味深なところです。 結局、この面会を経て、馬超の、韓遂への不信感はさらに高まりました。何も得られなかったのです。続 いて、関中諸軍閥との面会にて、決戦の時が決まりました。 そして、いざ決戦。しかし、韓遂と、その目付的な軍勢は動き(動け)ません。そのため、いかに猛攻と はいっても、曹操麾下の歴戦の勇者達の軍勢を突破することはできません。 そして…ついに、曹操の軍勢の両翼が、馬超の軍勢の分断にかかります。思うところあって、馬超とは歩 調を合わせなかった楊秋の軍勢が、結果としてこれを食い止め、馬超を助ける形になりました。この楊秋、 後に、説得を受けて帰順します。 一方、その頃、鄴で変事発生の報せが。直ちに出陣しようとする曹丕を(民生に優れた)国淵が諌めます が、聞く耳を持ちません。ここで、常林が登場します。さて、どう説こうというのか。
197:左平(仮名) 2007/11/24(土) 22:02 三国志(2007年11月) 今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。 最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林 が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。 もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり で出てきたようです)が出陣します。 さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者 は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。 さて、捕らえた者どもをどうすべきか。 「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり ました。程Gです。 旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害 はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。 その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。 帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。 そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。 中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。 そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。 本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った 者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は それをみるのは忍びない」 その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には 不満はありません。しかし…。 法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました (もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心 動かされていきます。 かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。 ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅 はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。
198:左平(仮名) 2008/01/04(金) 23:22 三国志(2007年12月) 今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。 最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の 方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。 この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって 不幸以外の何物でもないという感じです。 そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して 夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。 ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫 呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。 そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。 なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪 えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理 解しています。 では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。 (途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう だめかと思われたその時! …ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い 劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。 さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。 このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。 この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。 このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した 上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情 さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。 そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策 をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら 江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。 さて、次回は…?
199:ぐっこ@管理人 ★ 2008/01/16(水) 00:34:07 ID:Vd96Tbmi 記念ageヽ(´∀`)ノ! 左平(仮名)様ありがとうございます(´;ω;`)ブワッ
200:左平(仮名) 2008/01/18(金) 22:56:48 ID:PN7pBVAM 三国志(2008年01月) 今回のタイトルは「成都」。今回、成都にはまだ届いていないんですが…? 益州攻略戦は、まずは順調なスタートを切りました。劉備自身も、珍しく(?)羽目を外して龐統に諌め られるという場面もあります。 しかし、その軍勢はさほど多いわけではないし、また関羽・張飛・趙雲・諸葛亮といった面々は随従して いません。劉璋が劉備の後方を遮断すれば、袋の鼠になる危険性も大いにあったのです。 先手を打たれた劉璋ですが、まだ戦いは始まったばかり。ここで劉璋は、荊州の人ながら、文武にわたる 優れた実務能力を持ち、今や益州の重臣といえる存在になっていた李厳を派遣します。副将は、劉璋の婿 でもある費観(両者の年齢差は二十歳近く、とあります。費観は三十七で没したとのことですから、この 時点で李厳は四十は過ぎている、のでしょうか)。 人物を見る目が厳しく、また、自らに劣る者を友としないため、親友と言える存在の少ない李厳からみて も、費観は優れた人物でした。劉璋からの待遇は良いし、副将も文句なし。ならば、あとは全力で敵たる 劉備にあたるだけ…となるところですが、李厳の心中は、そうではありませんでした。そこが読めなかっ たのが劉璋の限界とは言えるのですが、なかなか難しいところです。 李厳の才を見出したこと一つとってみても、劉璋は決して暗愚な人物ではありません。しかし…。かつて 劉表のもとにあった李厳は、劉表に失望し、劉備に期待していました。その思いが、ここで頭をもたげて きたのです。 (婿であるからには、費観は劉璋を裏切ることはあるまい。と、なると…惜しい人物ではあるが…) 李厳はそう思いつつ、ついに、一つの決断を下します。そう、劉備への寝返りです。 しかし、ここで思いがけない事態が発生します。何と、費観も劉備に寝返るというのです。 もちろん、互いに示し合わせたわけではありませんから偶然の一致ということになるのですが…しかし、 劉備を討伐すべくさし向けられた軍勢の大将と副将が揃って寝返るというのはまた、何とも珍妙な事態。 当然ながら、劉璋側は混乱。劉備達は、さらに進攻します。 長くなったので、ここで分けます。
201:左平(仮名) 2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM 続き。 綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には 落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、 彼の命取りになりました。 龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。 現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気 をまとっています。 三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。 さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯 を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。 とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…? それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ させなかったということからもその能力がうかがえます)。 いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。 蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。
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