★『宮城谷三国志』総合スレッド★
194:左平(仮名)2007/08/13(月) 23:54 [sage] AAS
三国志(2007年08月)
今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。

建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない
だけに、曹操に目立った動きはありません。
内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態
とみると、動けないのも無理はないところでしょう。
それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、
いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。

南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに
加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて
は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。
速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。
いや、そればかりではありません。

軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと
たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見
を採用します。結局、それが大正解でした。
 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。
 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった
  (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた
  のか。

そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの
か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…?
しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも
あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。

ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。
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