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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
197:左平(仮名) 2007/11/24(土) 22:02 三国志(2007年11月) 今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。 最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林 が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。 もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり で出てきたようです)が出陣します。 さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者 は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。 さて、捕らえた者どもをどうすべきか。 「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり ました。程Gです。 旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害 はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。 その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。 帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。 そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。 中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。 そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。 本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った 者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は それをみるのは忍びない」 その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には 不満はありません。しかし…。 法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました (もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心 動かされていきます。 かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。 ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅 はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。
198:左平(仮名) 2008/01/04(金) 23:22 三国志(2007年12月) 今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。 最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の 方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。 この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって 不幸以外の何物でもないという感じです。 そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して 夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。 ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫 呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。 そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。 なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪 えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理 解しています。 では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。 (途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう だめかと思われたその時! …ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い 劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。 さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。 このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。 この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。 このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した 上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情 さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。 そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策 をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら 江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。 さて、次回は…?
199:ぐっこ@管理人 ★ 2008/01/16(水) 00:34:07 ID:Vd96Tbmi 記念ageヽ(´∀`)ノ! 左平(仮名)様ありがとうございます(´;ω;`)ブワッ
200:左平(仮名) 2008/01/18(金) 22:56:48 ID:PN7pBVAM 三国志(2008年01月) 今回のタイトルは「成都」。今回、成都にはまだ届いていないんですが…? 益州攻略戦は、まずは順調なスタートを切りました。劉備自身も、珍しく(?)羽目を外して龐統に諌め られるという場面もあります。 しかし、その軍勢はさほど多いわけではないし、また関羽・張飛・趙雲・諸葛亮といった面々は随従して いません。劉璋が劉備の後方を遮断すれば、袋の鼠になる危険性も大いにあったのです。 先手を打たれた劉璋ですが、まだ戦いは始まったばかり。ここで劉璋は、荊州の人ながら、文武にわたる 優れた実務能力を持ち、今や益州の重臣といえる存在になっていた李厳を派遣します。副将は、劉璋の婿 でもある費観(両者の年齢差は二十歳近く、とあります。費観は三十七で没したとのことですから、この 時点で李厳は四十は過ぎている、のでしょうか)。 人物を見る目が厳しく、また、自らに劣る者を友としないため、親友と言える存在の少ない李厳からみて も、費観は優れた人物でした。劉璋からの待遇は良いし、副将も文句なし。ならば、あとは全力で敵たる 劉備にあたるだけ…となるところですが、李厳の心中は、そうではありませんでした。そこが読めなかっ たのが劉璋の限界とは言えるのですが、なかなか難しいところです。 李厳の才を見出したこと一つとってみても、劉璋は決して暗愚な人物ではありません。しかし…。かつて 劉表のもとにあった李厳は、劉表に失望し、劉備に期待していました。その思いが、ここで頭をもたげて きたのです。 (婿であるからには、費観は劉璋を裏切ることはあるまい。と、なると…惜しい人物ではあるが…) 李厳はそう思いつつ、ついに、一つの決断を下します。そう、劉備への寝返りです。 しかし、ここで思いがけない事態が発生します。何と、費観も劉備に寝返るというのです。 もちろん、互いに示し合わせたわけではありませんから偶然の一致ということになるのですが…しかし、 劉備を討伐すべくさし向けられた軍勢の大将と副将が揃って寝返るというのはまた、何とも珍妙な事態。 当然ながら、劉璋側は混乱。劉備達は、さらに進攻します。 長くなったので、ここで分けます。
201:左平(仮名) 2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM 続き。 綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には 落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、 彼の命取りになりました。 龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。 現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気 をまとっています。 三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。 さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯 を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。 とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…? それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ させなかったということからもその能力がうかがえます)。 いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。 蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。
202:左平(仮名) 2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav 三国志(2008年02月) 今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。 成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの です(やっぱり最期があれだからなのか…)。 趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後 だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。 錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。 先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに のんびりとしております。 降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方 がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。 とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋 は降りました。 前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。 さて、ここで話は急に変わりまして… 長くなったので、ここで分けます。
203:左平(仮名) 2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav 続き。 いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反 対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では ないか、そんな感じの書かれ方です。 董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴 に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので 公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。 どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。 さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。 どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。
204:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd 三国志(2008年03月) 今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。 まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感 を抱き、諸葛瑾が遣わされます。 結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備 側の不利は否めません。 長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利 には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操 が気がかり)。 ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽 への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。 ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、 それぞれの、人としての器量が試されているのです。 劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉 します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉 備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。 決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。 ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤 壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。 対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という もの。はて、その意味するものは何か。 魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。 長くなったので、ここで分けます。
205:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd 続き。 かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。 「ゆくぞ」 宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。 余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない ところではありましょう。 しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。 呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま すがそれを振り回すわけでもなく)。 なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍 がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。 しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ ちりと登場しました)。 最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、 梟雄・韓遂もこの世を去ります。 漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。
206:左平(仮名) 2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe 三国志(2008年04月) 今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。 最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント …ってことは、韓遂は禿頭? はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。 そして、漢中の張魯攻めとなります。 約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は 随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿 論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。 張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。 さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。 しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義 からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの です。 思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う までもないでしょう。 ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ です。 しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の 中では、欲望の自制、ということがあったようです。 ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。 長くなったので、ここで分けます。
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