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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
202:左平(仮名) 2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav 三国志(2008年02月) 今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。 成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの です(やっぱり最期があれだからなのか…)。 趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後 だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。 錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。 先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに のんびりとしております。 降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方 がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。 とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋 は降りました。 前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。 さて、ここで話は急に変わりまして… 長くなったので、ここで分けます。
203:左平(仮名) 2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav 続き。 いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反 対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では ないか、そんな感じの書かれ方です。 董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴 に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので 公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。 どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。 さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。 どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。
204:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd 三国志(2008年03月) 今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。 まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感 を抱き、諸葛瑾が遣わされます。 結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備 側の不利は否めません。 長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利 には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操 が気がかり)。 ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽 への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。 ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、 それぞれの、人としての器量が試されているのです。 劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉 します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉 備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。 決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。 ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤 壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。 対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という もの。はて、その意味するものは何か。 魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。 長くなったので、ここで分けます。
205:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd 続き。 かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。 「ゆくぞ」 宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。 余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない ところではありましょう。 しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。 呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま すがそれを振り回すわけでもなく)。 なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍 がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。 しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ ちりと登場しました)。 最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、 梟雄・韓遂もこの世を去ります。 漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。
206:左平(仮名) 2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe 三国志(2008年04月) 今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。 最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント …ってことは、韓遂は禿頭? はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。 そして、漢中の張魯攻めとなります。 約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は 随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿 論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。 張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。 さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。 しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義 からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの です。 思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う までもないでしょう。 ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ です。 しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の 中では、欲望の自制、ということがあったようです。 ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。 長くなったので、ここで分けます。
207:左平(仮名) 2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe 続き。 今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹 丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思 いが芽生えているのです。 なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言 もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。 おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ ですから、この一回で二年ばかり経過してます。
208:左平(仮名) 2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK 三国志(2008年05月) 今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが… どうもそれだけではないようです。 初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植 につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。 ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の 一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。 前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎 ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕 揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。 彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。 ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、 魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。 さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。 学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。 遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民 の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。 早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。 学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。 曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。 ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ れたわけですが。 長くなったので、ここで分けます。
209:左平(仮名) 2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK 続き。 後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増 援を求めます。 前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。 李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出 した回答は…。 増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦 である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。 とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの 帰趨を決めるものとなるわけですが…。 さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州 の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。 これが、今後の展開にどう影響するのか。
210:左平(仮名) 2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW 三国志(2008年06月) 今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。 黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両 陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。 多勢に無勢。と、なると…。 …曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。 もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの です。 とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。 ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。 ついに曹操は撤退を決めます。 当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、 失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。 かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。 そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。 そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ? と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。 劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権 に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。 長くなったので、ここで分けます。
211:左平(仮名) 2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW 続き。 劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の 署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。 ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、 どのような心境でいたか…。 ともかく、関羽は、軍を北上させます。 「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。 今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく される。 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上 でそれをかわしながら戦わねばならない。 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。 援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。 関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。 それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と 二、三名になり…。 今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って いるわけですよね…。
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