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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
204:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd 三国志(2008年03月) 今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。 まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感 を抱き、諸葛瑾が遣わされます。 結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備 側の不利は否めません。 長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利 には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操 が気がかり)。 ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽 への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。 ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、 それぞれの、人としての器量が試されているのです。 劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉 します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉 備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。 決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。 ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤 壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。 対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という もの。はて、その意味するものは何か。 魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。 長くなったので、ここで分けます。
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