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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
214:左平(仮名) 2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2 三国志(2008年08月) 今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。 「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で 関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。 曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、 そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。 もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声 で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。 そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。 ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の 目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって いるようなイメージを持ってしまいました)。 関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免 れません。 その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。 ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。 かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。 当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛 されたのも宜なるかなというところです。 長くなるので続きます。
215:左平(仮名) 2008/08/23(土) 21:24:11 ID:tI77SrF2 続き。 さて、呂蒙の方ですが…全く気取られることなく荊州への進入に成功し、虞翻の巧みな説得により、ほとんど無傷で その確保に成功します。 他作品では、(私個人の偏見かもしれませんが)どこか奇人というイメージのある虞翻も、ここでは直言を憚らない まっすぐな人物として描かれます。しかし、孫策はその直言を喜んで聞きいれたのに、孫権は疎ましく思っていたと いうのも、何か変な感じが(兵を率いることで及ばないのはともかく、人を用いることで負けていては…)。 なすすべなく敵に迫られ、抵抗しても報われるかどうか分からない…と嘆いて士仁が降ったのに対し、糜芳の方は、 何か呆気なくみえました。そういえば、蒼天でもそうでしたね。 士仁の経歴等がいまいちよく分からない(仮にも太守だったわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ…ということは ないですし、ぽっと出の若手というわけでもないはずですが。ただ、彼を配していたことを、後方に対する警戒が薄 い、というように書かれていることからすると、軍事的手腕はもとから乏しい【裏を返せば、行政面での才能を期待 されていた】人物だった?)のに対し、糜芳は、徐州以来の古参。それが、いかに関羽との関係が悪かったとはいえ …という感があるのは否めません。 その後、呂蒙は、民衆の慰撫に努めます。ささいな罪を犯した同郷の兵を、涙をのんで処刑するあたり、その軍紀の 厳しさがうかがえます(一方で、そこまでしないと民心が得られないというわけですから、関羽の行政手腕も一廉の ものではあったようです)。 ちなみに、今回のラストは、前述の、徐晃が前漢の名将・周亜父の如しと称賛されたくだりですが、その前に、張遼 もちらりと登場。こちらにも、かなりの賛辞が。
216:画伯 2008/09/08(月) 09:30:20 ID:GAm8i4fg 先日中国南部で地震がありましたが、 雲南省に近い方なので成都や九賽溝の方には全く影響無いようです。 四川省って日本の倍近い広さがありますから。 四川省の北部観光地は、地震の影響でクローズしていたホテルも次々に営業開始し 値段も例年比べれば格安なので 四川省応援のためにもぜひ旅行におすすめです。
217:左平(仮名) 2008/09/21(日) 22:33:30 ID:/lB/9KId 三国志(2008年09月) 今回のタイトルは「曹操」。建安二十五(220)年。ついに、その時がくるわけです。とはいえ、今回の内容は、 そのほとんどが関羽についてのものなのですが。 背後で呉が蠢いているのに気付いた関羽は、状況を把握すべく、偵察を行います。偵察に向かったこの兵士、肚も 据わっているようですし、見るべきところもしっかり見ているところからすると、なかなかの人物と思われます。 ひょっとして、廖化?とも思うのですが、そのあたりについては分からずじまい(彼だけでなく、その父もなかなか の人物なんですよね、これがまた)。 呂蒙も、そのあたりは心得たもので、見事な対応を見せています。 呉に奪われた各郡は、呂蒙によって治まっている。この事実は、関羽にとっても衝撃でした。というのは、本作では 何度か述べられているように、関羽の行政手腕はかなりのものでしたから、この地の民衆は、新たな支配者に対して 強く反発すると思われていたからです。 それが、目立った混乱もなし。ということは、単に軍事上に留まらない敗北を喫したということでもありました(関 羽の徳が十分に及ばなかったということです)。 関羽が、策を弄し自分を欺いた陸遜に対しては怒りを露わにしたのに対し、呂蒙に対してはそれほどでもないように 見えるのは、そのあたりのこともあるように思われます。 あるいは、この時点で、関羽の中にある種の諦観があったのかも知れません。 麦城に籠った関羽ですが、兵の士気はもはや失われています。戦えないと判断するや、密かに城を脱出し、西に向か おうとします。もちろん、それは孫権も承知しており、分厚い包囲網が敷かれます。 天命とは何であるのか。何が正しく、何が正しくないのか。その答えは…。 一度は軽々と呉軍の包囲を突破しましたが、二回目(ここの呉軍の将が馬忠)は成らず。ついに、その小集団は殄滅 しました。あたかも、流星が燃え尽き、一筋の光芒を残して闇に溶けるかのように。 長くなったので続きます。
218:左平(仮名) 2008/09/21(日) 22:34:19 ID:/lB/9KId 続き。 関羽は、捕らえられたが呉に降るを潔しとせず、斬られた。史書がそう記すのは、関羽の名誉を守ろうとしたからで あろうが、それはかえって名誉を損なっているのではないか。言われてみると、頷けるところがあります 関羽は、諸葛亮と出会い(現実との妥協点を求めた結果)自尊を貫けなくなった劉備に代わって自尊を貫いた。で、 あるならば、なおさら、簡単な道は選べません。 それゆえ、魏と戦い呉とも戦った。春秋の義に憧れ、自尊を貫いた英雄はかくして斃れました。 関羽の首級は、曹操のもとに送られました。関羽を殺されたことに対する劉備の怒りを曹操に向かわせるためです。 しかし、曹操もそんなことは百も承知、孫権の慇懃無礼ぶりに不快感を示しながらも、関羽に礼を以て接し、(やや 意地悪く言うと)孫権との、人としての格の違いを見せつけます。 以下、個人的な感想。 こうしてみると、三国志では、呉はどうしても脇役にならざるを得ないんですよね。漢から禅譲を受けたという 正統性を持つ魏、漢の血胤による正統性を持つ蜀漢に対し、呉にはそういったものが全くありませんから。 孫権が切れ者であるのは間違いないのですが、正統性がないゆえ自由に動ける反面、その言動への彩がどうにも 難しい…。 しかし、なお意気盛んな曹操も、年には勝てず。関羽の首級と対面してから程なく、薨去しました。享年六十六。 曹操に対する、あまたの賛辞が語られた(曹彰のことがちらりと語られた)後、「ここからほんとうの三国時代が はじまるのである」と締められます。 …そう、そうなんですよね。三国時代というのは、地に三人の帝王が並立するという異常な時代。少なくとも、今 回までは、まだ漢の時代なわけですから、真の意味での三国時代ではないわけです。 しかし…どれだけ齢を重ねても、様々な三国志の物語を読んでも、三国時代に入る以前の方がいろいろな意味でそれ らしいというのが、また何とも…。
219:左平(仮名) 2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8E 三国志(2008年10月) 今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲 を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。 さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。 今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、 主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。 鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹 丕を持ち上げている)ためです。 ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。 続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣 達について描かれます。 特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な 言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、 功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。 さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。 父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると いうこともありました。 長くなったので続きます。
220:左平(仮名) 2008/10/12(日) 23:07:21 ID:LpP4Hk8E 続き。 賊が魏に降った、と喜んだのも束の間、西方では麹演らが叛乱を起こします。これは、蘇則らによってすみやかに鎮圧 された(名将・赫昭が彼の胆力に感服って…!)のですが、今回については、曹丕、いいとこなしです。 この後も、あれこれあるわけですが、よく書かれることがあるのか…なんて、よけいな心配も。 曹丕、とくると(?)、忘れてはならない人物の一人として、陳羣が挙げられますね。そして、陳羣とくると九品官人 法(九品中正法)。 この法の概要はおくとして、その精神は、というと…。 本作の最初の方(もう数年前になるのですね)に、光武帝のことが書かれていましたのを覚えておられますか?その際、 前漢と後漢とでは、人材をみる基準が異なっていた、ということが書かれていました(秀才どもは王莽を止められなか った…。故に後漢では、才能ではなく人格を重んじた、というようなこと)。 しかし、人格を重んじたはずの後漢では、実務能力に欠ける者が高官に…という具合で、結局腐敗は避けられなかった。 彼ら(曹丕、陳羣)は、それをどこまで分かっていたか…。 後々、いわゆる南北朝時代を語る上で、避けては通れない問題の萌芽があるわけです。 ラストは、孟達の魏への投降(曹丕の厚遇付き)と、劉封の非業の最期。彼の死を聞いた劉備は、一人になると泣いた …。これは、一体?
221:左平(仮名) 2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo 三国志(2008年11月) 今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ とは特に関係ないようです。 父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と いうのです。 禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作 られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…! 正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も あります(禅譲というものを軽く考えていました)。 ※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。 ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。 面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。 しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り 行われることと相成りました。 皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。 確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座 もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十 四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。 長くなったので続きます。
222:左平(仮名) 2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9 続き。 さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。 もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると これを諌める者が出るのも当然ですね。 やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の 力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には 好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。 曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。 まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。 …人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。 酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して 次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。 「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。 一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、 自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。 これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。 関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。 曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。 何か、焦っている…?
223:左平(仮名) 2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi 三国志(2008年12月) 今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。 晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺 されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。 趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。 話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。 所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。 あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した 後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳 くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。 劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に 大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義 は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。 一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上 の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、 普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。 長くなりますので、続きます。
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