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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
290:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:35:22 ID:???0 [sage ] 続き。 内においてはそのようなことがあり、また、築山を築くために大臣達に土を運ばせる(このことは董尋という人物に 強諌された)ということもありました。徐々にですが、曹叡という人物のマイナス面が顕在化しつつあります。 そんな中、ついに、遼東攻略が開始されます。将帥は司馬懿。地位といい、過去の戦歴といい、魏としてはこれ以上 ない人選です。このあたり、曹叡が本気であることがうかがえます。 出発にあたっての曹叡と司馬懿のやりとり一つみても、遼東攻略は、既に確実なものといえます(往還、戦闘、休息 を併せて一年と明言)。 既に絶体絶命の公孫淵。取り得る最善の策は「城を捨てて逃げる(その後、野にあって遊撃戦を展開する)」こと。 しかし、先に呉の使者を騙し討ちにした手口をみると、「損して得を取る」ことはできないであろう、と看破されて います。次善の策は「遼水を挟み総力を挙げて迎撃する」こと。恐らくこの策を取ってくるだろうから…それを封じ れば、下策「籠城すること」しか選択肢がなくなる、と司馬懿はみます。 遠征軍の司令官たる者はこうでなくてはならぬ。曹叡は、司馬懿の説明を満足げに聞きます。 いざ出発。戦地に赴く司馬懿は、ふと己のことを思います。今や軍の最高位たる大尉の任に就き、皇帝からは絶対の 信任を得ている。敵は弱小だが、その討滅は皇帝の宿願であり、それを為した暁にはこの上ない栄誉を得るであろう …。今こそ至福のときではないか、と。 とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しともいいます。将帥たる者は、最悪の事態をも常に考える必要があるのです。 続きます。
291:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:36:17 ID:???0 [sage ] 続き。 そんな予感のせいばかりでもないでしょうが、司馬懿は、途中(郷里の温県)まで弟と息子を同道させます。温県に おいては、ひとときの休息をとり、旧交を温めます。この時、彼の胸裏には何が去来したのか。 再び司令官の顔に戻ると、軍は北に進みます。幽州に入ると、もうすぐ戦地です。 遼水の対岸には、予想通り、遼東の防衛ラインが構築されていました。守るは、公孫淵配下の将、楊祚と卑衍。もち ろん、この程度のことは想定内です。 司馬懿は、胡遵に兵を授け、南から渡河させます。これに敵が釣られたところで、自身は北から渡河。時間差を利用 した、見事な運用です。 まず、敵に一撃くれてやりました。遼東の兵力は、その殆どがここに集まっているはず。なれば…。司馬懿に迷いは ありません。堅固な防衛ラインには目もくれず、一路襄平を目指します。 楊祚と卑衍は、司馬懿の用兵に翻弄されます。二人には、ここで敵を防ぐという意識が強すぎたため、守るべきもの の優先順位を誤ったのです。 楊祚が追撃を試みますが、これこそが司馬懿の狙い。あっけなく打ち破られます。二人が襄平に帰還した時には、既 に魏軍が迫っていました。 公孫淵は、この迎撃を卑衍に命じます。
292:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:37:00 ID:???0 [sage ] 続き。 もはや打つ手なし。今はただ戦うのみ。卑衍の決死の覚悟が兵にも伝わったか、この戦いは激戦となります。互いに 策もなく、ただただ死力を尽くした攻防が繰り広げられます。 「これが、遼東国の存亡の分かれ目だな」 となれば己の名は歴史に残る…。これぞ武人の本懐ということか。卑衍は微笑を浮かべます。持てる力の全てを出し 尽くした卑衍は、激戦の果てに、ついに斃れました。 司馬懿は、襄平を包囲します。しかし、ここで長雨に見舞われます。撤兵すべしという論が多数を占めますが、曹叡 と司馬懿には、ここは耐え忍ぶべきということが分かります。 物事には、時宜というものがあります。今こそ、遼東攻略のとき。決して退いてはならないのです。 およそ一月後。ついに雨がやみました。このとき、襄平の内部においては既に食料が尽きています。襄平に籠る公孫 淵に残された選択肢は…。 追記: 本作においては、ちょっとしか出ない武将にも、ちょこちょこと見せ場があります。今回は、卑衍。結果だけみると、 司馬懿の用兵に翻弄され続けて終わったわけですが、決死の覚悟で臨み、ついに斃れたその戦いぶりは、将としては 平凡だったにせよ、実に格好いいものでした。 それと、将帥としての司馬懿の成長ぶり。勝つべくして勝っている、としか言いようがありません。なぜ、今、ここ で、このように動くのか。それらがきちんと論理的に語られているのが、実に読み応えがあります。
293:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年10月) 今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転… いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。 この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに 多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧 の問題は避けては通れません。 ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。 もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に 遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使 者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫 淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。 なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。 「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、 われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので あろう」。 もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる 人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。 続きます。
294:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:12:24 ID:???0 [sage ] おっと、コピペミス。293の書き込みは三国志(2010年12月)です。 続き。 そんな中、星が落ちます。 「あのときは…」。諸葛亮が亡くなった時にもこのようなことがありました。星が落ちるということは、恒久的と思われて いたものの消滅を意味するのです。ここでは、公孫淵がそうですが…。 城内にまで魏兵が入ると、公孫淵は子とともに脱出を図りますが、ほどなく捕捉され斬られました。ここにおいて、およそ 半世紀にわたって続いた遼東国は消滅しました(叔父の公孫恭は幽閉されていたところを救出される一方、兄の公孫晃は、 連座という形で妻子ともども自殺に追い込まれます)。 遼東国の消滅により、東方から中原へ至ることが可能になりました。このことを見越していたかのように、倭国からの使者 が来訪。いったい、どのようにしてこの情報を得たのか。歴史の不思議が、ここにあります。 ※ここでは、倭国とだけ書かれており、「邪馬台国」「卑弥呼」という単語は出てきませんでした。はて…。 さて、首魁たる公孫淵を斬ったわけですが…まだ戦後処理が残っています。ここで司馬懿がまずしたことは…。今であれば 間違いなく虐殺とされることでした。 城内の男子を十五歳を境に分け、年長の者を皆殺しにし、京観(凱旋門の類)を築いたのです。数千人の屍で築かれた凱旋 門…何とも凄惨な光景です。 絶望的な戦いであったにも関わらず、目立った内通者が出なかったことを考えると、遼東国の内政は割合うまくいっていた ようです。住民がそれを追慕することが無いよう、仕分けたのでしょうか。 続きます。
295:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:12:51 ID:???0 [sage ] 続き。 これ以外にも、遼東国の高官達も殺されています。しかし、それ以外については、概ね寛容をもって対応。年内にかたが つきました。 その知らせは、洛陽にもたらされ、曹叡は絶賛します。たとえ小国とはいえ一国の併呑に成功した(これにより、少なく とも父・曹丕の業績を超えた)わけですから、感慨もひとしおだったことでしょう。 前線に立った経験もないのに、優れた戦略眼を持つ曹叡(具体例として、西方の叛乱における郭淮の対応のまずさを的確 に指摘したことが挙げられています)。前回語られたようなマイナス面もあるとはいえ、間違いなく英邁な帝王である彼 であれば、天下統一もあながち夢ではなかったでしょう。しかし…。 十二月。曹叡は病の床に臥しました。月初めに床に臥し、月末には危篤状態に。諸葛亮もそうですが、一月足らずでこれ ほど病状が悪化するとは、どのような病なのか。 ともかく、自身の死期を悟った曹叡は、後継体制の整備を急ぎます。 帝位は、養子の曹芳に。諸葛亮の如き者がいれば、その者に全権を委ねることもできますが、魏にはいません。さてどう したものか。…曹叡は、信頼できると判断した者達による集団指導体制(叔父である燕王・曹宇が筆頭)を考えます。 夏候献(不明)、秦朗(曹操の側室・杜氏の連れ子)、曹爽(曹真の子)、曹肇(曹休の子)。いずれも、帝室に近い者 達です。王朝に対する忠誠心はあるとしても、果たして能力的にはどうか(特に秦朗)。それより… 続きます。
296:左平(仮名) 2011/01/07(金) 01:00:05 ID:???0 [sage ] 続き。 この人事によって発生する、宮廷内の権力構造の大変動が問題です。事実、この人事に危機感を持った者がいました。 長く皇帝の秘書官的な役割を果たしてきた、劉放・孫資です。 秦朗、曹肇の放言から、自分達を排除しようとする意図をかぎつけた二人は、曹叡に直訴し、詔勅を変更させることに 成功します。それに気付いた曹肇が再度詔勅を変更させますが、ここが勝負どころ、と見極めた劉放・孫資がふたたび 曹叡に訴えかけたことで、決着がつきました。 一日のうちに何回も詔勅が変わるということは、病で判断力が衰弱していることの表れでもあるのでしょうが、曹叡の 本心は、果たしてどのようなものだったのでしょうか。 ともあれ、これにより、上記の五名のうち曹爽以外は失脚。曹爽と司馬懿に、後事が託されることになるわけです。 洛陽に凱旋する中、次々に来訪する使者。そして、そのたびに詔勅の内容が変わる。司馬懿ならずとも、都での変事の においに気付くことでしょう。急遽、予定を切り上げて、ひとり洛陽に急行します。 曹叡のいる宮殿に駆け込んだ司馬懿。臨終に間に合いました。 司馬懿に涙が。かつての諸葛亮も、このような感じだったのでしょうが、後のことを知っているだけに、複雑な感じが します。 追記: 病に倒れた時点での曹叡の年齢は三十四歳。翌年(西暦239年)で三十五歳ですから、建安十(205)年生まれと されています。
297:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:54:30 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年01月) 今回のタイトルは「浮華」。三国鼎立となってから十年余り。そろそろ、緩みが出てきたということでしょうか…。 曹叡は、司馬懿を待っていましたかのように崩じました。司馬懿が到着し、彼に後事を託したその日のことです。 「死さえ忍べは引きのばすことができる。朕は君を待っていた」。帝王からこのように言われて感動しない臣下は いないでしょう。しかし、司馬懿の胸中は複雑です。何しろ、自分とは親子ほども年の離れた若い帝王を送らねば ならないのですから。 明帝と謚された曹叡は、なかなかの名君でした。戦場を踏まなかったにも関わらず優れた戦略眼を持ち、人材の任 用にも過ちが無く、何より、諫言した臣下を殺さない、優れた自制心の持ち主です。 しかし、自制された鬱屈は、やはりどこかで発散させねばならないのでしょうか。鬱屈を晴らすかのように宮殿の 造営に狂奔したことは、かつての秦始皇帝や前漢武帝に例えられ、批判的に論じられています。 ともあれ、魏は新たな時代に入ることになります。幼弱の新帝を補佐するのは、曹爽と司馬懿の両名。国家の柱石 を担うだけにその封邑も多く、この時曹爽に授けられた封邑は、建国の功臣たる夏候惇や曹仁に授けられたものの 数倍にのぼります。 小心な曹爽は、当初、独断を避け、何事も司馬懿に相談する等、謙譲の姿勢をとりました。司馬懿も謙譲の姿勢を もって応じたので、まずは穏やかな雰囲気の中のスタートです。 しかし、両雄並び立たず、と言います。当然ながら、二頭体制はよろしくない、と考える者もいるわけです。 続きます。
298:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0 [sage ] 続き。 そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と 読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、 大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。 もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化 されるでしょうが、それが司馬懿であったとしたら、彼は曹氏一門をどう扱うか。それに、群臣からの信望のある 司馬懿に大志があれば…。 その意見を容れた曹爽は、司馬懿を実験から遠ざけるよう、手を打ちます。もちろん、何の落ち度もない司馬懿を 降格させることはできませんから、実権のない名誉職に祭り上げるのです。これは、うまくいきました。 司馬懿も、これには何か含むところがあるということは察知しています。しかし、ここでは、特に何もしません。 曹爽とその周りに群がってきた者達を虫に例える嫡子・司馬師に、「なるほど…害虫だな」と言うところをみると、 不快感は持っているわけですが…。 既に齢六十を過ぎた司馬懿。歴史を巨視的にみると、正しい者が最後には勝利するとしても、それは決して容易な ことではない。そういう、ある種の諦念がみられます。害虫の駆除は、若い司馬師がすべきことである、と。 続きます。
299:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0 [sage ] 続き。 一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢 人と見込んだ者達を集めたのです。 彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。 当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。 一方、呉の方は、といいますと…。 位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治 をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。 重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。 そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は 気に入り、側近として重用するようになります。 しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を するようになっていったのです。 続きます。
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