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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
293:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年10月) 今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転… いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。 この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに 多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧 の問題は避けては通れません。 ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。 もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に 遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使 者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫 淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。 なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。 「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、 われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので あろう」。 もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる 人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。 続きます。
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