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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
359:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/01/06(金) 01:19:39 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年12月) 今回のタイトルは「晩光」。孫権がいよいよ最期のときを迎えるわけですが、曹操・劉備とは異なり、本人の知らぬところでの 政争が繰り広げられます。そのせいか、今回は、いささか違った雰囲気が。 孫権から後事を託された諸葛恪は、ある人物に声をかけられます。上大将軍の呂岱です。呂岱は、諸葛恪に「あなたは、(事を 行う前に)十度お考えになるべきです」と助言しますが、諸葛恪は嫌な顔をします。 この言葉は、季文子(季孫行父)が三度考えた(後に事を行った)、ということを踏まえてのものと思われますが、諸葛恪には、 考える回数が多い分、自分が季文子に劣る、と言われたように感じたからです。 呂岱は、諸葛恪が、人の助言に耳を傾けないその性格ゆえに失敗することを危惧しますが、もはや為すすべはありません。 しかし、七十歳の老皇帝(孫権)が後事を託する者達の中に、九十一歳の老将(呂岱)がいるというのも、不思議なもの。 また、季文子が三度考えたことに対し、孔子は「二度考えれば足る」、としたことについての考察も、なかなか興味深い ものがあります。 才覚はあるとはいえ、危うさを抱えた諸葛恪に、いかに掣肘を加えるか。孫権も、このことはよく承知していました。皇子達の 封地にも、その意図が見えるといいます(長江に沿う形で、孫奮、孫休、そして孫亮を配置。廃太子・孫和は、孫氏にとっては 興隆の地だが地味の悪い長沙に配置することで復位はないことを示す)。 細かいところはこれからとしても、孫権亡き後の、おおよその形ができてきたというところでしょう。しかし、いかに制約を加 えたところで、諸葛恪が巨大な権力を持つことは明らかです。潘皇后の垂簾政治、という形をとって自らが実権を握りたい孫弘 としては、何とかしたいところです。 そんな中、ある事件が起こります。 続きます。
360:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/01/06(金) 01:21:12 ID:???0 [sage ] 続き。 潘皇后が急逝したのです。看病疲れはあったにせよ、子の孫亮が幼いことからも分かるように、まだ若く特に持病もない皇后の 急逝に不審なものを感じた(首筋に痕跡があるのに気付いた)諸葛恪は、みずから調査にあたります。 不審者が侵入したのではないか。皇后の侍女に、ついで衛士に問うものの、そのような者はいませんでした。どこか衛士の死角 をついて侵入したのか、と周囲を調べますが、死角は見当たりません。 事件は迷宮入りか、と思われましたが、再度衛士に問うたところ、侍女達に不自然な行動がみられたことから、真相が明らかに なりました。 やはり、皇后は殺害されたのです。はじめ、侍女の証言に怪しいところがなかったのは、彼女達の間で口裏合わせがあったため でした。それほどまでに、皇后は憎悪されていたのです。 この事件の少し前に改元が行われましたが、それをもってしても、呉の不運は祓えなかったのです。 孫権の病状は、いっこうに回復しません。不安に駆られた呉の人々は、この頃、神と尊崇されていた王表のもとに集まるように なります。 王表には、論戦を仕掛けてくる相手を言い負かすだけの弁才と学識があったことは確かなようですが、いくら彼でも、死にゆく 孫権を救うことはできません。このまま孫権が死ねば処罰されることを悟った彼は、姿を消しました。 王表が神であったかどうかはともかく、彼の逐電は、呉から神が去ったことを暗示していたのでしょうか。孫権の容態は、この 後、悪化の一途をたどります。 続きます。
361:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/01/06(金) 01:22:50 ID:???0 [sage ] 続き。 皇后の急逝にも、どこかうつろな孫権。しかし、おのが死を自覚した孫権は、あらためて、後事を託すべき者達を招集します。 呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、滕胤、それに呂拠の四名(孫峻は、孫権の命をうけて招集する側)です。 孫権は、諸葛恪が独断に走らないよう、入念に指示をします。そこまで指示しないといけないのか、とも思いますが、そんな 諸葛恪にまさる臣下がいないがゆえのこと。 これが、皇帝・孫権の最期の詔。と言いたいところですが…いつ亡くなるか分からないとはいえ、まだ生きている以上、これ とは異なる詔が出る可能性も否定できません。 この日は、孫弘が孫権の看護にあたることになったのですが、孫峻は、これに嫌な予感を抱きます。翌日、他の者と交替する までの間、孫権の容態を知る者が、孫弘ただ一人になる。これが何を意味するか。 はたして、孫弘にはある予感がありました。「陛下は、今夜、亡くなる」という予感が。孫弘が、諸葛恪を失脚させて自らが 実権を握るためには、何としてでもこの機会を逃すわけにはいかないのです。この間に、孫権が何を話したか、話さなかった か。それを知る者が孫弘のみということになれば、彼の勝ちなのです。 この夜は、孫弘・孫峻の二人にとっては、とても長く感じられたことでしょう。孫権が生きて朝を迎えるか否かで、すべてが 決まるのです。 孫権の容態を確認しながら、孫弘は、孫権の生涯に思いを馳せます。孫弘にとっての孫権とは、正直言って、よく分からない 存在でした。学問好きということだが、酒癖が悪いと印象が強く、何が偉大なのかよく分からない…が、それゆえに偉大なの であろう、と。 そして…孫権は、殂きました。 続きます。
362:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0 [sage ] 続き。 孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に 都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。 しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中 に入ると…。 孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。 孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫 弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。 追記。 今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、 あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。 印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。 諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。
363:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年01月) 今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく 動こうとしています。 まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。 さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に 亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。 性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。 これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、 すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。 司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。 諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。 魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿 のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて 目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。 続きます。
364:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0 [sage ] 続き。 ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を 加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。 諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。 しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の 伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。 そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを 無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。 もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え ました。使者が、蜀漢に赴きます。 これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請 があっても、動くかどうかは未知数でした。 諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、 蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。 続きます。
365:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0 [sage ] 続き。 その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。 超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。 その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。 費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。 費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、 その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった 雄姿に、憧れていたのです。 諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。 ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが 故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。 しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。 ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。
366:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0 [sage ] 追記。 今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。 前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に 寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。 後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶 の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次 に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。 この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して いたでしょうが…さてどうなるか。
367:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年02月) 今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。 諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。 将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、 味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。 諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪 ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。 張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと 味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。 戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる 一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。 こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると 見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。 ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。 ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。 続きます。
368:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0 [sage ] 続き。 兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が 魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。 となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。 司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。 既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は 王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還 しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。 司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を 失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。 ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達 ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。 魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は 外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。 続きます。
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