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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
371:左平(仮名)@投稿 ★2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0 [sage ] AAS
追記。
司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中
なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。
それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、
省21
372:左平(仮名)@投稿 ★2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0 [sage ] AAS
回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に
行われるわけもなく…。
諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が
崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に
思うのも当然でしょう。
省17
373:左平(仮名)@投稿 ★2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何
か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、
なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた
のでしょうか。
省17
374:左平(仮名)@投稿 ★2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を
遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。
孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。
このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮
省18
375:左平(仮名)@投稿 ★2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0 [sage ] AAS
追記。
今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの
でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと
殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。
遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った
省10
376:左平(仮名)@投稿 ★2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2012年04月)
今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。
李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう
省23
377:左平(仮名)@投稿 ★2012/05/03(木) 02:18:00 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
案の定、このことが司馬師に知られました。何ゆえ、李豊が…と思うものの、複数のルートから情報があがってきたとなれ
ば、無視することもできません。
司馬師は、やや強引に李豊を呼び出し、自邸に連れてこさせました。
省23
378:左平(仮名)@投稿 ★2012/05/03(木) 02:21:36 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
李豊の屍体は、廷尉の鍾毓のところに運ばれました。あの鍾繇の子にして、父の名に恥じぬ篤実な人物である鍾毓は、李
豊の死にただならぬものを感じます。
司馬師が殺させたことは明らか。常人であればその威勢を恐れて意のままになるところですが、大将軍としての公式な文
書がない以上、これは私刑によるものであるゆえ、受け取れない、ときっぱり拒否したのです。
省22
379:左平(仮名)@投稿 ★2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
「まずは、掃除、掃除」
司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と
いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。
省20
380:左平(仮名)@投稿 ★2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2012年05月)
今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。
司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を
省21
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