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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
389:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:11:39 ID:???0 [sage ] 続き。 既に劣勢なのは明らかな毌丘倹。そんな彼に、悲報が舞い込みます。子の甸が、亡くなったのです。 父の決起に呼応し、洛陽から父のもとに向かおうとしたのですが、途中で捕捉され、戦った末に討死したのです。魏の行く末を 案じ、魏に殉じた彼の最期を知った毌丘倹は、その死を哀しむとともに、誇りに思いました。 不幸中の幸いというべきか、毌丘倹の子は甸一人ではありません。他の子は呉に逃しました。自分が死んでも、毌丘氏の血胤は 残ります。毌丘倹は、決意を新たに、戦いに臨みます。 一方、文欽は、包囲網の一角を担う兗州刺史・ケ艾の迎撃を命ぜられます。意気込む文欽と、それに何か意見のあるような、中 子の文鴦。さて、何をしようというのか。 また、呉も動いていました。孫峻も、魏の内乱という好機を逃すほど愚かではありません。寿春(を拠点とする毌丘倹)を救援 すると言いつつ、あわよくば…というのは、呉としては当然の判断でしょう。 ただし、この少し前に、陳泰らによって姜維は撤退しているわけですから、今回も、蜀漢との連携はとれていないのですが。 何というか…立場によって物の見方は変わるものですが、今回は、特に強く意識させられました。前回、群臣達にはおおむね 好意的に迎えられた、神秘性さえ感じさせる曹髦が、こざかしい、なんて言われているわけですからね。 ただ、そう言っている傅嘏も、賢者とはいえ万能ではありません。王基の、突出とも思われる行動も、十分に理に叶ったもの だったわけですが、それを理解していないように見えました。 また、毌丘倹父子の、魏(主に曹叡)への忠誠ぶりには、清々しさを感じます。一方で、人々の支持を得ているのは、司馬師 の方。このあたり、正義とは、政治とは、等と考えさせられます。
390:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:13:38 ID:???0 [sage ] 追記。 今回の「オール讀物」に、宮城谷氏のインタビュー記事が載っていました。それによると、来年九月に出る十二巻をもって、 「三国志」は完結するとのことです。 ファンの人からは「呉の滅亡まで書いてほしい」との要望があったようですが、いつかの記事のように蜀漢の滅亡あたりで 終わりそうです。 (個人的には、さらにその後の、王衍の最期≒西晋の滅亡まで見たかったのですが…) 劉備は、全てを捨てることで蜀を得た、この時代の最大の非常識人である、という見方をされていました。本作では、曹操 を主人公とした(彼を描くために、養祖父・曹騰から書き始めた)わけですが、不思議なもので、劉備の方が独特の存在感 を持ったことになります。 本作の完結が見えてきたことにはいささかの寂しさを感じますが、この時期だからこそ、というべきか、新たに、「三国志 外伝」の連載が始まりました。 第一回の主人公は、許靖です。(上)となっているので、二回か、三回か。
391:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:06:01 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年07月) 今回のタイトルは「傅嘏」。毌丘倹の決起の結末はいかに。 前回の時点では、文欽達から最も近いところにいた敵は、南頓にいる王基でした。しかし、戦うよう命ぜられた相手はケ艾。 毌丘倹からすれば、王基ほどには実績がなく容易な敵だと思ったからですが、文鴦は少し違った視点を持っていました。 文俶(鴦は幼名)。未だ幼名が抜けきらない若年ながら、ケ艾が、まだ前線に着いて間もない(→戦う支度が不十分である) ことを看破し、直ちに攻撃すべきであると説きます。 文欽もこれに同意し、二人は直ちに支度を始めます。父であり、将としての格が高い文欽の方が多くの兵を率いるとはいえ、 文俶の支度は父よりも速やかで、かつ抜かりのないものでした。 二手に分かれて兵を進めたのですが、文俶は、(父の軍勢とケ艾を挟撃するべく)大きく北に回り込もうとします。そして、 これが(両軍にとって)思いもかけない事態を招くことになります。 この時、ケ艾が率いていたであろう軍勢は、一万程度といったところ。文俶が率いていたのは二、三千程度でした(文欽が 率いていた軍勢はこれより多いので、夜襲であれば十分挟撃が可能)。 しかし、文俶のもとにとんでもない報告がもたらされます。数万の大軍が近くにいるというのです。この確認に手間取った ため、夜襲というのはいささか微妙な時間となりましたが、夜が明けては元も子もありません。文俶は、攻撃を開始します。 この大軍の正体は大将軍・司馬師の本隊でした。王基が突出した形になっていたため、包囲網の形を整えるべく、前進して いたのです。 そんなところに、文俶は攻撃を仕掛けたのです。通常であれば、無謀そのものの行為ですが… 続きます。
392:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0 [sage ] 続き。 文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、 司馬師の陣営は大混乱に陥ります。 それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。 とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し つつも、撤退します。 撤退の途中、文欽の軍勢と合流しますが、(司馬師の叱咤で)混乱から立ち直った大軍が迫ります。報告を聞いた文欽は、 迷うことなく撤退しました。 文俶は、自らが殿を引き受け父を逃がします。この戦いぶりがまた凄まじく、その武威に恐れをなしたか、以降、追撃は ありませんでした。 物語では、文俶は趙雲に比せられていましたが、そう言われるのも無理からぬ戦いぶりです。人並外れた武勇に加えて 冷静な判断力。この二つを兼備した勇者は、なかなか得難い人材です。 また、文欽の逃げ足の速さもなかなかのものです。猛将とはいえ退くべき時が分かっているあたり、ただの猪武者では ありません。 文欽達は無事に撤退しました(そのまま呉に亡命)。しかし、その一部始終を聞いた毌丘倹は愕然とします。ただでさえ 兵力が漸減しているというのに、大将軍自らが率いる大軍が迫っているとなると、こちらの劣勢は明らかなのです。 毌丘倹は、体勢を立て直すべく、いったん本拠地の寿春まで退くこととしました。 続きます。
393:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0 [sage ] 続き。 一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。 側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。 項城の異変に気付いたのかどうかは分かりませんが、寿春への途上には、既に(近隣住民も駆り出した)捜索網が敷かれて いました。 捜索を避けるべく、毌丘倹は草むらに身を潜めます。そこに、捜索に当たっていた張属が矢を放ちます。矢は毌丘倹の首を 貫きました。…数万の大軍を率い、少なからぬ功業を挙げた勇将としては、あまりに呆気ない最期でした。首をみた司馬師 が慨嘆したのも無理からぬところです。 かくして、毌丘倹の決起は失敗に終わりました。しかし、ここで新たな問題が発生しました。司馬師の容態が悪化し、ついに 亡くなったのです。享年四十八。 死期を察した傅嘏・鍾会が、司馬昭を呼び、軍の引き継ぎを行ったため、ひとまず混乱は回避できました。とはいえ、これは あくまでも私的な引き継ぎ。皇帝・曹髦の承認を得たものではありません。 当然、洛陽からは、「司馬昭は引き続き本務にあたれ(毌丘倹討伐のために動員された軍は傅嘏が率いて洛陽に帰参せよ)」 という命令が届きます。兄の後を継いだばかりの司馬昭、いきなりの重大局面です。 続きます。
394:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0 [sage ] 続き。 このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。 それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判 断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。 いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。 既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、 この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。 この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの 色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。 追記。 毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。 外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。
395:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:19:50 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年08月) 今回のタイトルは「蛇足」。前回、呉・蜀漢に動きあり、というように書かれていました。このタイトルとの関連は…? まずは、呉から。孫権には七人の男子がいたわけですが、特にできのよかった上の二人(誠実な努力の人であった孫登、 才徳共に秀でた孫慮)が若くして薨去したのが呉にとって大きな不幸となったことは、既に書かれているとおりです。 二十歳で薨去した孫慮には子はいませんでしたが、三十三歳で薨去した孫登には三人の男子がおり、孫英がぶじに成人 していました。 本来であれば孫権の嫡孫であるわけですが、この時点で帝位にあるのは、孫権の末子・孫亮でした。孫英自身には野心は なかったようですし、太子となるまでの経緯はともかく、孫亮は正当に即位したわけですから、本来なら何の問題もない はずなのですが…孫亮が(結果的に)信任している孫峻が、問題でした。 信望を失った諸葛恪を倒した孫峻には、少なからぬ期待が寄せられていました。才智では及ばぬまでも、誠実かつ慎重に 振る舞えば、無難に国政を運営することができたでしょう。しかし、孫峻がしたことは、その逆でした。人々の期待は、 瞬く間に失望に変わりました。 孫峻を打倒せねば。そう思う人々は、自分達の行為を正当なものとするため、旗印となる人物の擁立を考えます。孫権の 嫡孫たる孫英は、うってつけの存在でした。 しかし計画は露見。孫英は、関与を疑われ自害しました。享年は不明ですが、恐らく二十歳程度とのこと。 続きます。
396:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0 [sage ] 続き。 孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。 才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。 これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない という賢さがある、とみて警戒したのです)。 そんな中、敵地に城を築くと宣言。わずかに滕胤が諫言したものの、孫峻は聞く耳を持ちません。今回の時点においては 大きな動きはないようですが、孫峻に、いわゆる死亡フラグが…? 一方、蜀漢の方は、というと…。費禕の死後、毎年のように兵を動かしていた姜維が、またしても動こうとしていました。 毌丘倹の決起をみて、魏の西方の備えが手薄になっているのではないか、と判断したのです。さすがに国力の疲弊を危惧 した張翼が諫めたのですが、姜維はこれを無視。強引に出兵を決めます。 ただし、この出師には張翼も同行しています。劉備の時代から仕えてきた老将の存在は、なかなか大きいのです。 また、夏侯覇の名もあります。 これを迎え撃つのは、雍州刺史であった王経。教養も気骨もある好人物ですが、軍事的手腕については、ちょっと…という ところ。西方の軍事を統括する陳泰に急報を送ったのはいいとして、情報が整理されていませんでした。 陳泰は、情報が錯綜していることを見抜き、速やかに指示を下します。その指示は的確なものだったのですが、通信手段が 限られている時代です。王経は、その指示に従わず(指示が届く前に)動いていました。 続きます。
397:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:23:35 ID:???0 [sage ] 続き。 魏にとっては最悪の展開です。王経は、迎え撃つ側であるにもかかわらず、不利な地に布陣してしまったのです。速戦を 好む姜維にとっては、願ってもない状況。あっさりと打ち破りました。魏軍は川に追い落とされ、甚大な損害を蒙ります。 辛うじて狄道に逃げ込んだ王経。なお一万の兵を擁するとはいえ、城は包囲され、兵糧は僅か。絶体絶命と思われました。 姜維がさらに攻勢に出ようとするのも無理からぬところ。張翼が「蛇足である」と諌めますが、聞くはずもありません。 しかし、陳泰は慌てません。援軍は、いずれもケ艾等の良将の率いる精鋭。都の司馬昭からも十分な後援が期待できます。 陳泰が行軍の速度を落とすまでもなく、援軍が追い付いてきました。ここで、軍議です。 軍議において、ケ艾は、要地に拠って敵の鋭鋒を避けては…と進言しますが、陳泰はこれを退けました。姜維の動きは、 魏にとっては最悪のものではない(狄道の攻略に固執したことで、西方諸郡を抑えられる危険がなくなった)。それゆえ、 速やかに狄道に向かい、王経を救うべきである、というのです。 ここは、陳泰の言うことに理がありました。ケ艾は良将ですが、ここは慎重に過ぎたようです。 ともあれ、魏軍は狄道に向けて進軍します。狄道に向かうルートは二つありますが、陳泰はあえて迂路とみえるルートを 進みました。それでも十分な速さで進み、蜀漢軍に気付かれることなく、狄道の近くまで進出することに成功しました。 そのまま奇襲することも可能でしたが、援軍の到着を知らせるべく、狼煙をあげました。陳泰にしてみれば、この戦いの 目的はあくまで王経の救援であって、蜀漢軍の撃滅ではないからです(城内が援軍の到着に気付かないと、動揺した将兵 によって王経が殺害される恐れがあった)。 続きます。
398:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:26:23 ID:???0 [sage ] 続き。 奇襲ではなくなりましたが、蜀漢軍からすれば、いつの間に、という状況には違いありません。城を包囲する兵を残しつつ、 新たな敵軍を迎え撃つというのは、相当な余裕がなければ不可能です。陳泰は、負けるはずがない、と余裕綽々で臨みます。 蜀漢軍は精強ですが、状況が状況ですし、魏軍も十分に精強です。しばらく一進一退の状態が続きましたが、やがて、蜀漢 軍の方が引いていきました。 こうして、魏軍は、狄道の救援に成功したのですが…ここでも、王経は陳泰の指示に従っていませんでした。必要ない、と 言われていたにもかかわらず、涼州に援軍を要請していたのです。戦後、王経が罷免されたのも、無理からぬところです。 一方、陳泰は昇進し、中央に戻ることになりました。 陳泰のあと、西方を任されたのは、ケ艾でした。先の戦いでは慎重に過ぎたケ艾ですが、西方の疲弊と、姜維の過剰なまでの 戦意に気付いていました(陳泰をはじめ、魏の誰もが、補給が続かないから姜維はしばらく動かないと思っていたが、ひとり ケ艾は、遠からず、姜維が攻めてくると予期していた)。 そしてその予想は当たりました。陳泰に敗れたとはいえ、その前の大勝の功績をもって大将軍に昇進していた姜維は、また しても兵を出してきたのです。 初めはケ艾を軽く見ていた姜維ですが、なかなかの難敵と分かると、胡済の軍と合流し、膠着状態の打開を図ります。さて、 これがどう出るか。 追記。 陳泰の活躍が目立ちましたが、一方で、魏と蜀漢の国力の差というものを見せつけた戦い、という感じがします。 先の曹真のときもそうでしたが、蜀漢は「勝たねばならない」のに対し、魏は「負けなければよい」わけですから。 また、呉の迷走ぶりもひどくなっています。政治的正統性(魏→漢から禅譲を受けた 蜀漢→漢の血胤)を持たない だけに、これを何とかしないといけないわけですが…。
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