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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
401:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/10/08(月) 06:35:33 ID:???0 [sage ] 続き。 時宜に適ったとはいえない出師です。滕胤の助言もあり、呂拠は行軍を急ぎません。そんな中、急を告げる使者が訪れます。 孫峻が、亡くなったとの知らせでした。 やがて続報が入り、急な胸の病による死であったことが判明します。さて、そうなると、たれが後任になるのか。 さらなる続報は、驚くべきものでした。孫峻のいとこ、とはいえ、これまで何ら目立った実績のない孫綝が実権を掌握した というのです。 このことに対し、呂拠は激しく憤ります。孫権に後事を託された滕胤と自分がいるのに、何ゆえ孫綝が、と。呂拠は、滕胤を 孫峻の後任とするよう上奏し、兵を引き返そうとします。 これに対する孫綝の動きは、存外素早いものでした。自身に正当性がないことが分かっているからか、政敵と妥協するという 選択肢は、端からなかったのです。 まず、滕胤を遠ざける命令を出させると、一族の孫憲(孫慮)を遣わし、滕胤を討とうとします。 呂拠に対しては、兵を引き返したことをもって謀叛の疑いありとし、呂拠の属将達に、呂拠を討つよう命じます。これにより、 呂拠の軍勢の動きは遅くなりました。 滕胤は、呂拠の軍勢と合流できれば、十分に勝機はありました。しかし、わずかに、間に合いませんでした。滕胤は討たれ、 呂拠は、呂範の子としての矜持をもって、自害して果てました。 相前後して清廉の人・呂岱も世を去り、呉において、孫綝を制する者がいなくなったのです。孫綝としては、これはもっけの 幸いでした。しかし、彼に国政を牛耳られた呉にとっては、どうなのでしょうか。
402:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/10/08(月) 06:37:31 ID:???0 [sage ] 続き。 まだ幼いとはいえ、皇帝・孫亮は、聡明な人物でした。そんな彼からすれば、孫綝の如き者に制約される状況は、耐え難い ものがあります。 年が明けるとともに、親政を行う旨を表明した孫亮。しかし、亡き孫峻もその聡明さを警戒していたわけですから、容易では ありません。 孫権が後事を託した者達が、皆、世を去りました。呉は、この先、どうなるのやら。
403:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:29:30 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年10月) 今回のタイトルは「朱異」。呉は、魏の内戦に介入しようとして、また一人、良将を失うことに…。 物語は、既に西暦257年。各国とも、何度か改元が行われています。魏・呉に比べて改元の少ない蜀漢は、小なりといえ ども、国内は比較的安定している様子。国内情勢については、呉が最も荒れていて…。 もとをたどれば、孫権が呂壱を重用したあたりからその芽があったわけですが、太子・孫和派と魯王・孫覇派の対立の中で、 多くの良臣を失いました。孫権の死後もそれは収まらず、ついに、何の正当性もない孫綝が実権を握る始末。 若年とはいえ聡明な孫亮が、この状況をよしとするはずもありません。即位から五年。親政を行う決意を固めました。 意欲的に政務に取り組む孫亮は、孫綝にとって、うるさい存在となりました。また、皇帝直属の軍事力の形成にも取り組む など、何が必要かを、正しく理解していると思われます。しかし、この頃の孫綝には、なぜか運がありました。それが呉に とっての運とは言えないのが、呉の混乱の原因なのですが…。 そんな中、孫綝のもとに、軍吏が報告に来ました。魏の諸葛誕が協力を求めてきたというのです。初めは一笑に付した孫綝 でしたが、諸葛誕が実子を含む多数の人質を出すと聞き、兵を出すことを決めました。 魏の内紛は、呉にとっては好機。この出師は孫亮も承認し、諸葛誕が籠城する寿春に向け、大軍が出撃しました。呉として は、割と素早く動いたのですが…。 続きます。
404:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:31:15 ID:???0 [sage ] 続き。 それにしても、諸葛誕といえば、魏の征東大将軍。相当な高位にあります。それが、何ゆえ叛旗を翻したのでしょうか。 …諸葛誕は、司馬氏を恐れていました。彼自身に咎が及んだことはないのですが、先に司馬氏によって消された曹爽達とは 親しく付き合っていたため、いつか自分にも…と危惧していたのです。 司馬氏は、司馬懿→司馬師→司馬昭と代替わりし、寛容さも見せていたとはいえ、先の、曹爽達を葬り去ったやり方を見る と、疑心暗鬼になるのも無理はありません。 そのため、南方を任され、寿春に赴いた彼がまずしたことは、毌丘倹の轍を踏まぬよう、現地の民の心を得ることでした。 これによって、彼のためには死をも厭わぬ者達を得たわけですが、さらに…と大軍を要請したことで感付かれました。 中央への召還命令。一応、三公への昇進という飴はありましたが、群臣達の序列からして、異常な話ではあります。これに 司馬氏の好意を感じていれば、あるいは違った展開があったのでしょうが…諸葛誕には、これが、自分を抹殺するための罠 にしか感じられませんでした。 謀られた、という怒りの中、楽綝を殺し、その軍勢を合わせた諸葛誕は、寿春に籠城します。単独では勝てないことは十分 承知していた故、呉との連携も十分考慮していました。 続きます。
405:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0 [sage ] 続き。 しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の 近郊に至り、包囲網を敷いていきます。 いかに王基といえども手が回りきらなかったか、あるいは兵法に従いわざと空けておいたのか、包囲網には僅かな隙があり ました。呉は、ここから援軍を寿春に入れることには成功したのですが…諸葛誕にとっては、二重の意味で有難迷惑でした。 一つは、城内に大軍が入ったことで兵糧の消耗が早まること。もう一つは、城内に入った将が、仲の悪い文欽であったこと です。 このあたり、孫綝の采配のまずさが感じられます。彼の采配のまずさは、これだけではありませんでした。勇将・朱異の 使い方も、その一つです。 当初、朱異が向かっていたのは、寿春ではありませんでした。彼に与えられた命は、孫壱を討て、というものだったのです。 孫壱というのは、孫静の孫の一人で、当時、沙羨侯でした。父、兄、そして彼自身、呉の臣として、何ら問題はありません でしたが、孫綝に敗れて亡くなった呂拠や滕胤と姻戚関係があったため、孫綝に睨まれていたのです。 孫壱は、朱異が自分を殺すために来たことを察知し、呉に見切りをつけて魏に亡命しました。魏で厚遇されたところをみる と、呉の帝室の一門の人間の亡命は、魏からしても慮外のことだったようです。 続きます。
406:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0 [sage ] 続き。 孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、 兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。 これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ には動けません。朱異の軍勢は、動かなくなりました。 従軍していた陸抗は、かつての廉頗に似ている、と感じました。強敵相手には、うかつに動くよりもいったん静止した方 が良いこともあるのです。しかし、これまで遮二無二突撃していた朱異の突然の静止は、孫綝に、あらぬ疑いを持たれる 恐れがあります。 陸抗は朱異に諫言しましたが、朱異は孫綝を警戒していなかったため、召還命令に応じて孫綝を訪ねた際に、申し開きを することも出来ぬまま、殺されてしまいます。 孫綝は、そのまま兵を引き揚げてしまったため、寿春は孤立しました。犬猿の仲の諸葛誕と文欽が、同じ城内にいて、劣 勢の中、焦燥感を募らせていきます。
407:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0 [sage ] 追記。 初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで 役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。 しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか なか鋭敏なのが、また…。 また、諸葛誕が反旗を翻した動機が、演義とは異なり、恐怖によるものとされていますが、政敵に対する司馬氏のやり方を みると、無理からぬことと思います。 「敵に対してはどんなことをしてもよい」というのは、一見正しいようですが、後々のことを考えると…ということがあり ますからね。
408:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年11月) 今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。 寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。 孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって 打って出よう、というのです。 しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、 献策は容れられませんでした。 蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期 まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。 しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。 こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。 やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈 していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。 献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。 降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍 中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。 続きます。
409:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、 降ることに成功しました。 司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。 全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。 全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の 娘・孫魯班を娶っている)。 その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。 訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿 春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。 孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。 司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な 協力を約束しました。 司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。 続きます。
410:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0 [sage ] 続き。 城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。 全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、 これほどの策はそうそうないでしょう。 とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。 幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。 彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。 全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。 そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで 呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。 彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、 皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。 さて、どうするか。 続きます。
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