★『宮城谷三国志』総合スレッド★
414:左平(仮名)@投稿 ★2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2013年01月)


今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。
文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を
殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。
これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。

司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した
のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。
自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。

そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。
この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで
ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。
決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て
くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。

 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲
 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、
 とされています。
 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。
 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…)

続きます。
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