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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
64:左平(仮名) 2003/02/10(月) 22:42 ◆若き曹操(たち) 今回の宮城谷三国志◆ 今回、だいぶ三国志らしい感じになってます。曹操、孫堅、劉備の三英傑は言うに及ばず、袁氏、盧植、公孫サン【王+贊】、さらには司馬懿の名も。といっても、物語はまだ黄巾の乱以前ですが。 少年・曹操は、橋玄に認められます。その上で、許子将に評されて、世に名を知られるわけです。このあたりは有名ですが…。 さすがは宮城谷氏です。意外な盲点を指摘されています。 1,橋玄は、高句麗を討伐したとあるが、『三国史記』(朝鮮三国【高句麗、百済、新羅】時代を記した書物)には記載がない。 2,許子将と曹操の年齢差は小さい。(橋玄と知り合った当時)十代の曹操を評した時、許子将は二十代前半ではなかったか。 そういえば!です。しかし、『三国史記』にまで目を通されているとは…。 その頃、孫堅は自らの勇気と機知により出世の糸口をつかみ、劉備は一族の支援を受けて盧植門下に入ります。遊び歩いた劉備に「哀しさ」をみたというのも、初めてではないでしょうか。 …このあたり、『蒼天』とは明らかに異なる物語になりそうです。 一方、中央はといえば、相変わらず。批判勢力に手を焼いた宦官達は、ついに猛将・段ケイ【ヒ+火+頁】を使い、弾圧にかかります。彼については特に言及していないあたり、個人的には少し気になります。 そして、宋皇后失脚に連座する形で謹慎する曹操に、一つの出会いが!
65:★ぐっこ 2003/02/13(木) 01:37 むう、ようやく三国志(;^_^A やや…今日はちょっと眠いので寝ますが…許劭と曹操の年齢差なんか 考えたこと無かった! んー…でも、曹操が少年時代の頃から月旦じみた ことやってるはずだし…案外、当時のアウトローだったのかな? 橋玄も含めて、調査せねば… あと、劉備も登場か…。宮城谷作品だと、どう描かれるのだろうか…楽しみ。
66:左平(仮名) 2003/03/11(火) 00:00 ◆怪異・妖異、失脚・失脚、蒼天・黄天 今回の宮城谷三国志◆ 今回は、郷里にこもった曹操のつぶやきから始まります。 宮中付近で次々と起こる怪異現象。それは、五行相勝説から見ても五行相生説から見ても、ともに漢の終焉を予感させるにふさわしい代物。蔡ヨウ【巛+邑】の決死の諌言も、愚昧な霊帝の、認識の甘さの前には、効果なしです(密封された上書を読んでるのを宦官に後ろから見られてるってのは…密封した意味がない!) 蔡ヨウ【巛+邑】の亡命生活が十二年にも及んだって事は…彼が中央に復帰したのは、董卓が権力を掌握してからという事ですか。と、なると、董卓の考えはどこにあったか、というのも気になりますが…まぁ、それはまた後の話。 宦官達は、専横の限りを尽くしますが、その一方で、内部抗争みたいな状況もあります。王甫が失脚し(段ケイ【ヒ+火+頁】も巻き添え)、彼を失脚させた陽球も失脚し、悪の巨魁・曹節は天寿を全うする…まるで救いがありません。 そんな中、孔明や孫権が誕生しています(今回は、それ以上の言及はなし)。 宦官にとりいって権力の座に近付く何氏。皇子の誕生という慶事の陰に毒々しい嫉妬。 そして、ついに、あの教祖が登場します! 今回の最後は、光和六(183)年。翌年は… 連載開始から二年。ついに、三国志の原点となる、あの事件が!!
67:★ぐっこ 2003/03/13(木) 23:10 ああもう!はやく文庫本にならないのか!(←ハードカバーは?) 連載始まって二年ちかくなりますが、やっとこさ三国志演義のスタート 地点に…。 楊震にはじまった物語は、さて誰で終結するのやら… 宮城谷氏は存外キャラの最後をサクッと端折ることが多いので、どの人物 が「アンカー」を受け持つにしても、歴史の中の1ページとして流されるのかな…
68:左平(仮名) 2003/04/10(木) 23:42 ◆黄巾の乱 途中経過? 今回の宮城谷三国志◆ 今回、遂に黄巾の乱が勃発します。このあたりの経過は、比較的淡々と書かれています。ただ、最初に「潁川郡は賢者を生む」みたいな事も書かれているのは、後につながるのではないでしょうか。 それはそうと、ちょっと驚く事が。 黄巾の乱の鎮定には劉備も加わっていた様で、曹操や孫堅ほどの目立った活躍はしていないのはまぁ承知しております。しかし、「劉備が関羽・張飛を左右に従える様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後とみるのが無難である」とは!!上記の文章は、立ち読みの流し読みであるだけに多少の誤記はあるにしても、初耳です。宮城谷氏の事ですから、しかるべき資料があるのでしょうが…一体何にそういう記事が…。 最後は、罷免された盧植の後任として戦地に向かう董卓が。盧植を罷免した霊帝を「ばかな皇帝」と蔑む男の腹の内は…。
69:★ぐっこ 2003/04/11(金) 00:45 やや、もう文春の頃ですか〜! といいますか、劉備が関羽・張飛を左右に従える 様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後 とみるのが無難である わたしもコレ初耳ですわ! 当然、それなりの根拠ないし考察を経ての ことなんでしょうけど…。私も読んでみたうえで、考えてみます(^_^;) そして董卓が黄巾討伐ですか…。どうも董卓が主眼保持キャラになるって パターンも珍しいですが、彼がどうやって黄巾に敗れるのか、見てみたい ですな。蒼天みたいに「わざと敗走」ってところでしょうか。
70:左平(仮名) 2003/04/11(金) 23:22 いや、董卓の存在が重いというのは、私の見る目の偏りもあるのかと思います。現在、「牛氏」を書いてて多分に意識しているところですので。 とはいえ、「それゆえかれは戦場へはいそがない」ってな書かれ方をするあたり、どうなのでしょうか。 割とさらりと書いてる様でも、よく読むと、やはりしっかりと書かれているのが分かります。張角は天を祀り(事実上)皇帝を自称したとか、波才対皇甫嵩・曹操の戦いにおける猛火を指して「これほど幻想的な戦場はない」という様に表現したり。 そういえば、今週の蒼天で、後姿で描かれた半裸の男って、ひょっとして張角ですか?
71:もす 2003/04/13(日) 04:04 >劉備が関羽・張飛を左右に従え… えっと、ちょっくら調べたところ、それらしいモノが。 いや、それらしいとしか言えないんですが。(^^; 黄巾が蜂起したのが中平元年、184年のこと。 それから4年というと、当然中平五年、188年のことになりますよね。 で、今泉氏の「関羽伝」に目を向けると、「関羽が涿郡で劉・張と出会ったのは188年のこと」とあるんです。 関羽伝には「劉備が兵を集めたとき、関羽は護衛官となった」とありますから、丁度188年に兵を挙げたことになると思います。 今泉氏の記述には現地で聞いたことをそのまま書いてあることが少なくなさそうなので、 これも民間伝承からだと思うんですが、宮城谷氏もこれを鵜呑みにしないまでも考慮されてるのではないでしょうか。
72:左平(仮名) 2003/04/13(日) 19:51 もすさん、ありがとうございます。そういう伝承があったのですか。 しかし、以前の「三国史記」といい、さすがは宮城谷氏といったところですね。そういえば、ちょっと前に引っ越しなさったとか聞きました。なんでも、書庫が手狭になった為だとか。 今回の「週刊新潮」にありましたが、故・司馬遼太郎氏が作品を書こうとする時、トラック一台分の古文書が神田から運ばれたなんて言われたそうです。 プロは凄い…。
73:★ぐっこ 2003/04/13(日) 22:44 >>71 もす様、情報さんくすです!なんと!むかし「関羽伝」図書館で借りたことがありますが、 前の方の伝承は読み飛ばしていたなあ… 黄巾の蜂起から4年後となると、とうぜん黄巾の乱自体は終焉をむかえ、ほとんど残敵掃討 の状況かと。翌年に董卓が政権を乗っ取る時期すから、地方行政はもう分裂しまくって機能 してないような状態だったかも知れませんね…。 そこから推測しますと、まだ乱たけなわの時期のほうが、正規軍が転戦するだけ治安維持も 「まし」だったかもしれず、乱が終決して地方がグチャグチャになった時期こそ、劉備ら 「郷里自衛軍」の出番が多かったかも。 そう考えると、なるほど黄巾終結後の劉備旗揚げもうなずけますな。 >>72 そうなんですよねえ…。司馬遼太郎先生も、一編の小説を書き上げるのに 数年間を史料集めにあてられたそうですが、いちど記者に「史料はご自分で 探されるのですか?」とか質問を受けて愕然としたと聞きます。 「人に集めてもらえる類なら苦労しないよ」みたいな苦笑混じりのコメントが あったと思いますが、内心、相当呆れられていたようで。 歴史作家は、一にも二にもまず史料。まあ、あまり根詰めて他の作家の作品を 熟読したりすると、池宮氏のようになる罠…。 イロイロ言われてますけど、私ゃ意識して剽窃したとは思えないですなあ… それもよりによって司馬先生の小説を…。
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