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名士と君主権力
1:2002/10/27(日) 01:13
JN[北海道] 投稿日:2001年06月01日 (金) 02時38分43秒
君主と名士みんな仲良しだと思っていたんですけど、違ったんですね例えば呉公孫淵が孫呉への帰順しようとする姿勢を見せた時の張昭と孫権の意地の張り合い、結局は公孫淵は孫呉の同盟の使者を斬った、他には名士に打撃を与えた張温を失脚させた、きえん事件、張昭を丞相に推すのを却下したのもやはり君主権力の確立を目指した為なのだろうか?しかし孫権は名士と対峙してたわけじゃないんですね、皇太子孫登に補佐役に陸遜「太子四友(諸葛かく、張休、顧たん、陳表)」に満遍なく支持を求めるなど融和に努めたが、皇太子が死去し、後継者争い、君主権力の強化での名士との対立、そして二宮事件を引き起こす、結局孫亮を二代目にしたが、これに関わった名士は弾圧され、名士の失望を招き孫呉は滅亡にむかう。と自分が今まで何も知らなかった深すぎますねーこの世界は、長くなってすいませんただ前ふりが長すぎまして。なんか間違いとかいっぱいありそうやし、間違ってたら教えてください。
2:2002/10/27(日) 01:13
松竹梅[関東] > (2001/06/01(Fri) 23:50:04)
公孫サンが「今取衣冠家子弟及善士富貴之,皆自以為職當得之,不謝人善也」(簡訳:名士の子弟を取り立てて金持ちにしてやっても、そいつらはそれを当然だと思って俺に感謝しないだろう)と言っていたように、当時の群雄達にとっては名士たちは扱いにくい存在だったと思います。かといって名士弾圧をやっちゃうと公孫サンみたいに滅亡しちゃうし。孫権も、自分の権力確立のために名士の扱いには苦労したのでしょう。
3:2002/10/27(日) 01:13
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/06/01(Fri) 23:59:33)
君主と名士(というより、この場合は豪族層?)の対立は、
たとえば現在日本でもありますよ〜。
権限集中を押し進める中央サイドと、既得権益を守ろうとする
省9
4:2002/10/27(日) 01:13
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/06/02(Sat) 00:00:04)
東呉の名士と呼ばれる人間は、徐州系(諸葛・張・魯・周など)と
揚州系(陸・顧・朱・張)にわかれ、前者は「中央官僚」、後者は
「地元豪族」というカンジですねー。
省14
5:2002/10/27(日) 01:13
孫ぽこ(何か委員会営業部長)[関東] > (2001/06/02(Sat) 14:27:01)
この話題は,ホント奥が深いですよ。私にもさっぱりワケワカメです^^;。
一つだけはっきり言えるのは,孫策政権と孫権政権の違い。孫策政権は北からの参入者と身分の低い武官たちで主力が構成されていて(周瑜と孫堅時代からの参入の朱治は除く。)揚州の名士を除外した勢力でした。むしろ孫策は積極的に揚州の名士を弾圧しています。そうすることで孫策は孫家単独の絶対優位政権を作り上げた。その代償として呉の名士・揚州土着の宗教勢力らと反目した結果が謎の暗殺事件につながります。
省8
6:2002/10/27(日) 01:14
JN[近畿] > (2001/06/02(Sat) 19:23:48)
むむむ・・・難しいですな〜、名士を優遇すると、民衆支配は安定するけど、権力と軍事力は弱体する、名士を優遇したのはえん紹と劉表逆に名士を弾圧したのは松竹梅さんが言った公孫サンと呂布です、民衆支配は安定しないけど、軍事力は君主に集中し集中と共に巨大化していくのが特徴です。ちなみに曹操はジュンイクによってえんせん出身の名士を引寄せたえんせんグループ。ジュンイクの死後えんせんグループは曹操の権力に屈服するしかなかったんですね、それを示すのにジュンイクの甥ジュンユウは魏公就任を勧める文章の筆頭に名をあげていますね〜だからと言って君主権力が確立したかというと、そうではないと思います、やはり名士を成り立たせているものは軍事でも経済でもなく文化的価値だ。完全に自分の配下に置こうと思うなら名士がもつ文化的価値を超える新たな価値を作りだし、文化価値で勝つというか優越する必要があったんです、当時の名士はの文化的価値の根底には儒教があって、曹操はそれに代わる新たな文化選んだのは文学ですよね、建安文学と言われる文字活動が始まったのは曹操が文学を重視したのと深い関わりがあると思う。
7:2002/10/27(日) 01:14
JN[近畿] > (2001/06/02(Sat) 19:37:24)
後継者争いでも君主権力を強化しようとする影が見えますね〜曹ヒと曹植、名士層の儒教基準は長男が家督を継ぐとある、儒教価値を持つ名士には支持される、支持したのはえんせいグループの陳グン、一方の曹植は父に勝る文学的才能をもっており名士層に対抗できるという点があったが、赤壁の敗退で蜀・孫呉が力をつけたため名士を断ち切って君主政権を確立できなくなった為、結局曹ヒが後継者に指名される、曹ヒは自分を支持してくれた、名士に借りを作ることになった。陳グンの九品中正制度の表れです、この制度のせいで司馬が専権し晋を建国することになった。益州の劉エンは東州兵が軍事基盤になっており彼は罪のない豪族を殺すなど支配力を見せはじめるが豪族も黙っている訳にはいかない。か龍を中心に反乱を起こすが東州兵の奮戦に鎮圧される、そして跡をついだ劉ショウは暗愚であった為再び東州兵と豪族が対立し始める劉備が益州侵入
は益州豪族張松と名士法正によって行われていく
省7
8:2002/10/27(日) 21:03
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年06月02日 (土) 21時41分53秒
曹魏政権における名士層、というのは他の勢力ではちょっと見られない特異な存在かもしれませんね〜。もう魏末から晋にかけては世襲貴族のようなものでしたし…。
曹操が儒教の見えざる呪縛を引きちぎるために「文学」を選び、自らがその旗手として旧秩序を破壊していったという論、私は卓見だと思います! 後継者選びの基準に文才を据えた事についてはなお議論を待ちますが、「贅閹の遺醜」たる曹氏にとって、清流派名士ほど有用で迷惑な存在はなかったでしょうね。
潁川グループは、晋に移った後、一流半の貴族として代々の政権に根を張り生息している様子。このへんは、『六朝貴族社会の研究(岩波書店)』が詳しいです。
省13
9:2002/10/27(日) 21:03
japan[関東] > (2001/06/03(Sun) 00:18:06)
>もう魏末から晋にかけては世襲貴族のようなものでしたし…。
大変残念ながら、これは「九品官人法」が原因でしょう。
省14
10:2002/10/27(日) 21:03
JN[近畿] > (2001/06/03(Sun) 01:42:50)
>大変残念ながら、これは「九品官人法」が原因でしょう。
(1)起家の時点でその後の出世コースがほぼ決定してしまうため、いくら実績を積もうが(或いはさぼりまくろうが)昇進には何の影響も無い。
(2)起家官=郷品は「郷里の評判によって決定される」という建前だが、実際には父祖の官位に応じて決まる。よって、高官の子は自動的に高位に就く事が保証されている
省9
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