南蛮王呂布の痛快活劇スレ
52:2002/10/28(月) 00:06AAS

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月27日 (月) 11時51分17秒 

■今回は「ネタ」です■

「張高孟公孫馬伝 第七」より
省11
53:2002/10/28(月) 00:07AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/27(Mon) 11:53:10)

 ちょうどそのころ、呂公(玉川註:呂布の尊称。カイ越の部下にあらず)は南中から劉璋の領地を狙っていた。敵情視察をかねて自ら劉璋の元に赴いたとき、公孫楼と初めてまみえた。呂公は一目見て[公孫楼の]優れた美貌に惹かれたが、公孫楼の方ではまったく相手にしていなかった[1]。建安五年、呂公はついに北伐の軍を起こし、成都を攻めた。このとき公孫楼は「新・白馬義従」を率いて応戦したが[呂公に]捕らえられた。呂公は大義をもって降伏を説いたが公孫楼は従わず、[呂公の]軍師の陳宮は公孫楼を斬るよう勧めたが呂公はそれを断り、公孫楼は解放された[2]。

[1]『公孫楼別伝』にいう。このとき呂公は公孫楼に「剣持って夜の学校とか行ってません? 」と尋ねたが、公孫楼にはなんのことだか理解できなかった。
省9
54:2002/10/28(月) 00:07AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/27(Mon) 11:55:30)

[2]『飛将軍伝』にいう。公孫楼が節を守って降ろうとしないのを見た呂公は、ゼビウスのバキュラですら256発弾を当てたら割れることをひいて降伏を説いたが、陳宮は[バキュラの件は]デマであるとして、公孫楼ほどの武勇を持つ者が放たれ[て再び敵対す]ることを恐れ、思い切って斬るよう勧めた。しかし、呂公はいずれ公孫楼を説き伏せることを信じて、陳宮の言葉には従わなかった。
 臣裴松之は考える。この時呂公が公孫楼を斬らずに解き放ったのは、まったく道理にかなっていることである。だからこそ、公孫楼は後に改めて呂公に帰順し、それ以後は呂公のために身を賭して仕えることになったのである。

省8
55:2002/10/28(月) 00:07AAS

香香[東海] > (2001/08/27(Mon) 13:35:30)

↑面白いですね(^.^)!TOP絵も素晴らしかったです!>玉川さま
お時間があれば、この形式で「南蛮王伝」たてて頂きたいものです(笑) 
56:2002/10/28(月) 00:08AAS

おばら[関東] > (2001/08/27(Mon) 15:26:38)

ぷっ。
おもしろい!!玉川さまはユーモアも溢れていらっしゃる^^
57:2002/10/28(月) 00:08AAS

左平(仮名)[中国] > (2001/08/27(Mon) 23:07:53)

私も加わってみたいのですが、どうもユ−モアには自信がなくて、、材料だけ、二、三。@正史の「三国志」には、親のおかげで太守の位についた人達についての記述があります。彼ら(三人あがっています)を「三予」と呼んだそうです。ということは、このシリ−ズでは、劉璋がまさにそれでは?しかも、父(劉焉)のおかげで益州牧の位に就き、息子(劉循)のおかげでそれなりの地位にいる、まさに「七光り×2」状態!「予予の人」なんて、、 A字について。「蒼天航路」の呂布はえらく「龍」にこだわってますから、子供達の字も龍がらみにしては?龍の他にも、龍と対になる鳳凰(鳳は雄、凰は雌)や、鳳凰の一種の鸞(らん)、鴻(こう:燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや の鴻)とか大鵬とか、、、。結構かっこいい字ができると思うのですが(ちなみに私は、Zで作成した関羽の娘に鸞の字を使いました。関鸞、字は天芳。長く美しい髪をなびかせ、父親譲りの武勇を奮う、、)。
58:2002/10/28(月) 00:08AAS

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/28(Tue) 00:49:07)

うわっははははははははっはっはっは!
最高です! 玉川様っ! 公孫楼の画に加えて、こんどは伝まで!
というわけで、またまた勝手に公孫楼伝を抜粋させて頂きました〜。
省7
59:2002/10/28(月) 00:09AAS

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/28(Tue) 00:52:42)

 >左平(仮名)様
おお、アイデアありがとうございます〜!たしかに劉璋、父と息子のおかげですね〜。予予の人…。
あ、それと呂文姫と呂刀姫ですが、ぴったり正解!
省11
60:2002/10/28(月) 00:09AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 11:51:32)

ご好評?頂き嬉しい限りです。
また、ぐっこさんのお陰で「正史」に昇格?大感謝。

省8
61:2002/10/28(月) 00:09AAS

川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 13:22:15)

「公孫楼伝」続き
 呂公はさらに軍を進め、劉璋は梓潼へと追いつめられた。建安六年夏、呂公は緜竹関を破り、公孫楼はこのとき高順によって捕らえられた。程なくして梓潼も陥落し、劉璋は呂公に降ったが、公孫楼も時を同じくして帰順した[1]。

省9
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