南蛮王呂布の痛快活劇スレ
61:2002/10/28(月) 00:09

川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 13:22:15)

「公孫楼伝」続き
 呂公はさらに軍を進め、劉璋は梓潼へと追いつめられた。建安六年夏、呂公は緜竹関を破り、公孫楼はこのとき高順によって捕らえられた。程なくして梓潼も陥落し、劉璋は呂公に降ったが、公孫楼も時を同じくして帰順した[1]。

[1]『無口っ娘倶楽部 建安六年秋増刊号』で呂公はこのときのことを次のように語った。「…で、俺が聞いたワケよ。『まだやるか? それとも俺のところに来る?』ってな。そしたら楼ちゃん(公孫楼のこと)はどうしたと思う? こくっ、って頷いたんだぞ! わかるか、これが!? これこそが無口っ娘の醍醐味ってもんだろうが!」
 また、同書では次のようにも言っている。「まあ、勝因はアレだな、マメに手紙でこみゅにけいしょんをとった事だ。いきなりおしかけてまくしたてたら、それでお終いだ。それとな、いやしくも無口っ娘倶楽部の会員たる者、微妙な表情の変化から心情を読みとれないと一人前とは言えないな。まあ、せいぜい精進することだ。おっと、楼ちゃんに手は出すなよ?その時は…分かってるよなあ?」
 臣裴松之の意見。呂公のこれらの言葉は、人材を求めるという点では実に理に適っているのだが、臣は八重歯っ娘萌えであるので、それ以上詳しいことはわからない。しかし、現存する無口っ娘倶楽部の会員に会って話を聞いたところ、呂公は今なお絶大な支持を得ており、呂公と公孫楼の関係はあたかも、いにしえの聖天子と賢臣のそれの如くに規範とされているとのことであった。
1-AA