南蛮王呂布の痛快活劇スレ
54:2002/10/28(月) 00:07AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/27(Mon) 11:55:30)

[2]『飛将軍伝』にいう。公孫楼が節を守って降ろうとしないのを見た呂公は、ゼビウスのバキュラですら256発弾を当てたら割れることをひいて降伏を説いたが、陳宮は[バキュラの件は]デマであるとして、公孫楼ほどの武勇を持つ者が放たれ[て再び敵対す]ることを恐れ、思い切って斬るよう勧めた。しかし、呂公はいずれ公孫楼を説き伏せることを信じて、陳宮の言葉には従わなかった。
 臣裴松之は考える。この時呂公が公孫楼を斬らずに解き放ったのは、まったく道理にかなっていることである。だからこそ、公孫楼は後に改めて呂公に帰順し、それ以後は呂公のために身を賭して仕えることになったのである。

省8
55:2002/10/28(月) 00:07AAS

香香[東海] > (2001/08/27(Mon) 13:35:30)

↑面白いですね(^.^)!TOP絵も素晴らしかったです!>玉川さま
お時間があれば、この形式で「南蛮王伝」たてて頂きたいものです(笑) 
56:2002/10/28(月) 00:08AAS

おばら[関東] > (2001/08/27(Mon) 15:26:38)

ぷっ。
おもしろい!!玉川さまはユーモアも溢れていらっしゃる^^
57:2002/10/28(月) 00:08AAS

左平(仮名)[中国] > (2001/08/27(Mon) 23:07:53)

私も加わってみたいのですが、どうもユ−モアには自信がなくて、、材料だけ、二、三。@正史の「三国志」には、親のおかげで太守の位についた人達についての記述があります。彼ら(三人あがっています)を「三予」と呼んだそうです。ということは、このシリ−ズでは、劉璋がまさにそれでは?しかも、父(劉焉)のおかげで益州牧の位に就き、息子(劉循)のおかげでそれなりの地位にいる、まさに「七光り×2」状態!「予予の人」なんて、、 A字について。「蒼天航路」の呂布はえらく「龍」にこだわってますから、子供達の字も龍がらみにしては?龍の他にも、龍と対になる鳳凰(鳳は雄、凰は雌)や、鳳凰の一種の鸞(らん)、鴻(こう:燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや の鴻)とか大鵬とか、、、。結構かっこいい字ができると思うのですが(ちなみに私は、Zで作成した関羽の娘に鸞の字を使いました。関鸞、字は天芳。長く美しい髪をなびかせ、父親譲りの武勇を奮う、、)。
58:2002/10/28(月) 00:08AAS

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/28(Tue) 00:49:07)

うわっははははははははっはっはっは!
最高です! 玉川様っ! 公孫楼の画に加えて、こんどは伝まで!
というわけで、またまた勝手に公孫楼伝を抜粋させて頂きました〜。
省7
59:2002/10/28(月) 00:09AAS

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/28(Tue) 00:52:42)

 >左平(仮名)様
おお、アイデアありがとうございます〜!たしかに劉璋、父と息子のおかげですね〜。予予の人…。
あ、それと呂文姫と呂刀姫ですが、ぴったり正解!
省11
60:2002/10/28(月) 00:09AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 11:51:32)

ご好評?頂き嬉しい限りです。
また、ぐっこさんのお陰で「正史」に昇格?大感謝。

省8
61:2002/10/28(月) 00:09AAS

川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 13:22:15)

「公孫楼伝」続き
 呂公はさらに軍を進め、劉璋は梓潼へと追いつめられた。建安六年夏、呂公は緜竹関を破り、公孫楼はこのとき高順によって捕らえられた。程なくして梓潼も陥落し、劉璋は呂公に降ったが、公孫楼も時を同じくして帰順した[1]。

省9
62:2002/10/28(月) 00:10AAS


玉川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 13:25:20)

 公孫楼が呂公に帰順してすぐの頃、呂公のもとに主立った臣下が揃ったことがあった。話が弾むうち、ふと話題は市井での噂のことになり、呂公があたかも悪役のように語られているものがある、と言った者がいた。呂公はその寛大さで[あくまでもそれは笑い話のこととして]その話を面白おかしく評してみせた。呂公は戯れに陳宮に向かって、「ふん。じゃあ俺が悪の親玉ならば、お前はさしずめ…… 」とまで言うと、そこへ公孫楼が「悪の参謀……。」とつぶやいたのだが、呂公はこの答えを当意即妙なものとして大いに喜んだ。この後、陳宮は「………。じゃあ公孫楼どのは悪の女幹部。」と切り返したが、公孫楼は「私は悪じゃない。」と答えた。これを聞いた者は皆、公孫楼の話しぶりは無口っ娘として極めて優れたものであると称賛した[1]。

省7
63:2002/10/28(月) 00:10AAS

玉川雄一[関東] > (2001/08/28(Tue) 13:28:21)

 呂公が張魯と結び、さらに北伐の軍を起こして馬騰と戦ったとき、公孫楼は馬雲碌と戦って、自らこれを手捕りにした。建安八年、呂公が交趾を攻めた時にも付き従い、孫策の将の賀斉をうち破った。さらに軍を進めて南海へと出陣し、呂公と共に[劉表の将の]傅巽、黄忠を破った。この後しばらく南海にとどまったが、建安九年の初めには本国へと帰還していった[1]。

[1]この時のことは、どの書物を調べても事情がはっきりしない。いくつかの書物には「交州が消滅した」と記されているが、そのようなことが起こるのだろうか。まったく不思議なことである。
1-AA