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南蛮王呂布の痛快活劇スレ
45: 2002/10/28(月) 00:02 玉川雄一[関東] > (2001/09/10(Mon) 09:49:12) ↑なんで、曹操プレイで関羽がいるかって? それはヒ・ミ・ツ♪(^-^)
46: 2002/10/28(月) 00:02 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/10(Mon) 23:03:41) 私も最初上級でやってたんですが、あまりに理不尽でかったるくてこれ以上光栄を嫌いになりたくなかったの、とにかく初心者にしてみました。 それでもこの差!PKの発売が待ち遠しい…って!これが光栄商法! 今回のPK後売り商法だけは我慢なりません。私はPKを購入する予定いっさいナシ! 他にもっといいメーカーがいてくれたら…。 関羽が曹操陣営に…? 確かかなり初期のシナリオですから、劉備は平原にいるんですよねえ…速攻で攻め落とした!?
47: 2002/10/28(月) 00:03 香香[東海] > (2001/09/11(Tue) 11:35:58) 私も読ませて頂きました・・・。ホント、ストレスたまりますよね。敵と同じ確率ならば、戦術に失敗しても納得出来るんですけどね・・・。 上級はキツいですよ。敵COMの都市能力回復率が異常に高いので、後半シナリオで北伐を目指した時にはは泣きたくなってきました・・・。無論、途中で止めましたよ。今の張遼編は当然初級です(笑)。 関羽が何故・・・?私も気になります(笑)。
48: 2002/10/28(月) 00:03 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/11(Tue) 21:17:30) それです! せめてプレイヤーと同確率だったら…! それだけでも、「今作は難易度ひくいな」というくらいの批判ですんでいたでしょうに…。 ヘタにヘビーユーザーを意識して乱数いじって、挙げ句シリーズ最悪の評価を受けるんですからヤブ蛇もいいとこ。光栄経営陣が謙虚に批判を受け止めてくれることを期待します。
49: 2002/10/28(月) 00:03 玉川雄一[関東] > (2001/09/13(Thu) 14:21:37) さて、「蒼天日記」更新いたしました。 しかしながら、誠に勝手ではありますが一身上の都合によりサイトの更新を一旦休止することになりました。でも、こうしてお邪魔したりするのは続けていこうと思います。 突然ではありますが、ご理解・ご協力の程をお願いします。 …関羽の謎はまたいずれ、ということで。
50: 2002/10/28(月) 00:03 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/13(Thu) 21:10:04) え…! なんと、休止ですか〜!残念です! あずまんがネタもよい感じで乗ってきてましたのに〜! とにかく、お疲れさまでした〜。 再開を心待ちに致しております〜。
51: 2002/10/28(月) 00:04 玉川雄一[関東] > (2001/09/13(Thu) 23:17:24) 申し訳ありません。全て私の不徳の致すところ。ですが、必ず再開させます。 …まあ、その分こうして頻繁にお邪魔することになりそうですが(←ネット中毒) あ、「閉鎖」ではありませんので、気が向いたら何か書き込んでいただければ嬉しいです。
52: 2002/10/28(月) 00:06 玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月27日 (月) 11時51分17秒 ■今回は「ネタ」です■ 「張高孟公孫馬伝 第七」より [公孫楼伝] 公孫楼は字を澄舞(笑)といい、北平の太守公孫サンの娘である。公孫楼が幼い頃、袁紹の攻撃で父を初めとする家族を失った。後に戦乱を避けて益州に移住し、長じてからは劉璋に使えることとなった。公孫楼は口数が少なく、他人とは必要最小限の言葉を交わすだけであっが、しかしそれ故に[かえって]一言一言には万金の重みがあった[1]。 [1]『公孫楼別伝』にいう。公孫楼は幼い頃は明朗闊達、誰とでも心を開いて語り合う気性の持ち主であったが、袁紹によって家族を失ってから、無口な性格となった。 臣裴松之は考える。いったい、人の性格がこれほどまで極端に変わってしまうことがあるだろうか。『公孫楼別伝』には、このようににわかには信じがたい記述がしばしば見られる。
53: 2002/10/28(月) 00:07 玉川雄一[関東] > (2001/08/27(Mon) 11:53:10) ちょうどそのころ、呂公(玉川註:呂布の尊称。カイ越の部下にあらず)は南中から劉璋の領地を狙っていた。敵情視察をかねて自ら劉璋の元に赴いたとき、公孫楼と初めてまみえた。呂公は一目見て[公孫楼の]優れた美貌に惹かれたが、公孫楼の方ではまったく相手にしていなかった[1]。建安五年、呂公はついに北伐の軍を起こし、成都を攻めた。このとき公孫楼は「新・白馬義従」を率いて応戦したが[呂公に]捕らえられた。呂公は大義をもって降伏を説いたが公孫楼は従わず、[呂公の]軍師の陳宮は公孫楼を斬るよう勧めたが呂公はそれを断り、公孫楼は解放された[2]。 [1]『公孫楼別伝』にいう。このとき呂公は公孫楼に「剣持って夜の学校とか行ってません? 」と尋ねたが、公孫楼にはなんのことだか理解できなかった。 臣裴松之の意見。この呂公の言葉は、まったく意味が不明である。臣も他の書物をあたってみたが、これに類する記事は全く見つからない。ここからも、『公孫楼別伝』がいいかげんな書物であることがわかる。 『無口っ娘倶楽部 建安五年秋号』には呂公の言葉が記されている。「俺は無口っ娘倶楽部の一号会員として彼女を陥とす義務があるのだ。」 『華陽国志』にいう。呂公はひと月に何度となく公孫楼に手紙を送ったが、公孫楼の方では全く返事を出すことがなかった。しかし、心の中では呂公が[劉璋とは比べられないほど]英邁な人物であると思うようになっていった。
54: 2002/10/28(月) 00:07 玉川雄一[関東] > (2001/08/27(Mon) 11:55:30) [2]『飛将軍伝』にいう。公孫楼が節を守って降ろうとしないのを見た呂公は、ゼビウスのバキュラですら256発弾を当てたら割れることをひいて降伏を説いたが、陳宮は[バキュラの件は]デマであるとして、公孫楼ほどの武勇を持つ者が放たれ[て再び敵対す]ることを恐れ、思い切って斬るよう勧めた。しかし、呂公はいずれ公孫楼を説き伏せることを信じて、陳宮の言葉には従わなかった。 臣裴松之は考える。この時呂公が公孫楼を斬らずに解き放ったのは、まったく道理にかなっていることである。だからこそ、公孫楼は後に改めて呂公に帰順し、それ以後は呂公のために身を賭して仕えることになったのである。 『公孫楼別伝』にいう。後に公孫楼はこのときのことを馬雲碌に語った。「あのとき、もうこれでお終いだと思ったけれど、呂公のお陰で今こうしていられる。」 臣裴松之の意見。公孫楼がこのようなことを口に出して語ることがあるだろうか。呂公に対して感謝と忠義の念を抱くことはあっても、公孫楼の性質ならばきっと心の中にとどめておくに違いない。『公孫楼別伝』の内容の信憑性が低いことはこの点からも明らかである。
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