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南蛮王呂布の痛快活劇スレ
498:左平(仮名) 2005/01/10(月) 01:32 >諡号 私も、諡号についてはそんなに詳しいわけではありませんので何ですが…とりあえず、 「諡法解」でググって見つかったサイトのURLなどを貼っておきます。 ○諡号辞典 h ttp://www.toride.com/~fengchu/sigou/ →それぞれの字に与えられた意味について分かりやすく書かれてます。 「大漢和」「字統」における字義も書かれてます。 ○雨栗莊 h ttp://moroo.com/uzokusou/ →原文のチェックが可能です。 で、これらを参考に孟卓殿の諡号を考えてみますと… ・古の蕭何に比する声望→蕭何の諡号は文終侯 ・同じく、古の曹參にも比せられ得る→曹參の諡号は懿侯 ・ちょっとタイプが異なりますが…張良の諡号は文成侯 死後の待遇はトップクラスですが、事跡においては、統一前に他界 しているのでちょっと「文」には至らないかと。 で、結論は…「恭」あたりが無難ではないかと思います。 「恭」には、尊賢貴義曰恭(賢人を尊び、義士を貴ぶこと)、尊賢敬譲曰恭 (徳がある人を敬い、功のある人を譲ること)、安民長悌曰恭(民を兄弟の 様に愛すること)などの意味があり、美諡ですから、相応しいのではないか と思います。 呂布(徳がある人)に付き従い、内政官として民を安寧に導いたという事で。 もちろん、二字を組み合わせるのもありなんですけど、この当時の諡号は、 まだ一字で済んでるケ−スが多いかと。 >オリジナル武将 PKで能力インフレが常態になってる私には、結構控えめな数値に見えます。 ]では能力の成長はありましたっけ?ないのでしたら、特に呂鳳(刀姫)の それでは、曹操と渡り合うのは辛いでしょうね。
499:左平(仮名) 2005/01/10(月) 01:49 >諡号 この場合、当初「恭」とつけたけど、呂布の判断で「厳」に改めた、というのはいかがでしょうか。 最後の親征に臨むにあたり、諡号にチェックを入れたということにすれば、書き直さずに済みます。 旧秩序の破壊者たる呂布なら、諡号の常識を覆すという判断も充分考えられます。 (それに、対呂布には「恭」でも、他からみれば「厳」という事跡もあるでしょうしね)
500:刀の錆 2005/01/10(月) 23:32 ぐっこさま、ありがとうございます。早速、使わせていただきます。
501:★ぐっこ 2005/01/11(火) 00:08 >左平(仮名)様 情報ありがとうございます〜! いやさ、恭侯(・∀・)イイ!! 諡のほうはこちらにしますー! あと厳のほうは、やはり張公程公の類で、生前の彼に対する 敬号をそのまま語り継いだ…というカタチにしようかと思います。 >刀の錆さま はーい。存分に活躍させてください〜
502:MM2 2005/01/11(火) 00:38 どうも。名前が出たのでちょっと書いておきます。 >ぐっこ様 >左平(仮名)様 名士番付表は見やすいものでは学研から出ている『真 三国志一』に載っています。 表に七言評は載せられているのですが、『後漢書』を読んでも李膺とか陳蕃のものしか出ていないので出展が気になっていたのです。 『後漢書集解』党錮伝序によると七言評の大体は『三君八俊録』という書(?)が出展のようで、前述の表にある七言評の殆どが書かれています。 肝心の張邈の箇所には「恵棟曰語曰海内厳恪張孟卓」とありまして、はっきりと出展は示されていません。 “厳恪”…おごそかで慎み深い 参考になりましたでしょうか。では〜
503:左平(仮名) 2005/01/12(水) 00:55 こちらの世界では無事に天寿を全うした(厳密には、数え57くらいではこの言い方は正しくないと聞いた様な) 孟卓殿の諡号について、ちょっとこんなネタを考えてみました。 『張バク【しんにゅう+貌】伝』 (前略)建安十七(212)年一月、卒す。謚して恭侯とする。後、改めて厳侯と謚する[一][二][三][四]。 [一]『張公碑』にいう。孟卓の遺徳を偲んだ益州の民が、その人格を賞賛した称号にちなみ「張厳公」と呼んだことから、謚を厳侯に改めた。 [二]『呂公戦記』にいう。呂公(呂布)の命により、孟卓の謚を厳侯とした。 [三]『謚法解追録』には、「己を戒め身を慎むを厳という」「人を尊び行いを正しくせしむるを厳という」とある。 [四]『南蛮書・左氏伝』にいう。左史の平は、孟卓の謚を恭侯とするよう建言したが、呂公の言葉を聞き、謚を厳侯と改めた。 趙翼曰く、「逸周書謚法解」をみれば分かることだが、「厳」という謚の例はこれ以前にはない。ゆえにこれ(孟卓の謚号)は、 「厳」という謚が付けられた初めての例であると判断することができる。
504:左平(仮名) 2005/01/12(水) 00:56 (短編:ある史官の告白) 「それは、建安十七年三月のことであった−」 老史官・平は、訥々とその時の事を語り始めた。 「当時、先帝(呂布)は、袁氏(袁譚)・曹氏(曹操)を征伐すべく、兵を進めておられた」 「世にいう、大親征ですね」 「そうじゃ。そして、当時益州刺史の任にあった張厳侯が亡くなられたのは、その少し前の一月のこと」 「となると…先帝が謚号をお決めになられたのは帷幄の内ですか…」 「さよう。わしは、その時左史の位にあった。それゆえ、先帝の諮問にあずかったのだよ。あの時の事は、決して忘れられぬ」 「平よ。それで、孟卓の謚は決まったのか?」 「はい。『恭』がよろしいかと存じます」 「『恭』?」 「はい。孟卓様の事跡を鑑みれば、『恭』がよろしいかと」 「どういう意味があるのだ?」 「はい。『逸周書謚法解』に曰く、『敬事供上曰恭(尊上を敬うことを恭という)』『尊賢貴義曰恭(賢人を尊び、義士を貴ぶことを恭という)』『尊賢敬譲曰恭(徳がある人を敬い、功のある人を譲ることを恭という)』『安民長悌曰恭(民を兄弟の様に愛することを恭という)』とあります。孟卓様はそのご生涯において、陛下(献帝)を敬い、王(呂布)という賢人を尊び敬い、益州刺史として民を愛し教化にこれ努めておられました。ゆえに『恭』がふさわしいと申し上げるのです」 「そうか。…なぁ、『厳』というのはどうなんだ?」 「『厳』ですか?それは『謚法解』にはありませんが…いかがなされたのですか?」 「うむ。俺はな。孟卓とは『義は君臣と言えども、情においては兄弟の如し』という仲であった。ゆえに俺は、君臣としてではなく、兄弟として孟卓の謚を考えてやりたいのだ」 「それは分かります。しかし、なにゆえ『厳』なのですか?」 「そなた、孟卓が海内の名士であった事は存じておろう」 「はい。何でも『八廚』の一人に数えられたとか」 「そうだ。そして、孟卓は『海内厳格』と評されていた。すなわち、『私財をなげうって人々を救い、海内をおごそかで慎み深いものにする』という事だ」 「はい。…なるほど、『厳』という字もまた、孟卓様の人となりをよく示しておられるというわけですな」 「俺は、孟卓を、我が配下の一人としてではなく、海内の名士として葬ってやりたいと思っておる」 「…分かりました。古式にはございませんが、孟卓様の謚は『厳』がふさわしいと。王はそうお考えなのですね」 「そうだ」 「かしこまりました。その様にいたします」 「あれからわしは、少なからず世の非難を浴びた。王に媚びて古式を歪曲したとな」 「そうですね。しかし、あなた様は、その他の事についてはかなり厳しい諌言もなさったとうかがっております。なにゆえ、この時に限って?」 「理由は二つある」 「二つ、ですか」 「そうだ。古式にないとはいえ、あの時の王のお気持ちは礼に適うものであった。ゆえに、あえて古式にない謚号を用いることに賛同した」 「それが一つですか。では、もう一つは?」 「なに、難しいことではない。…考えてもみよ。今より万年の後、いったい何人の帝王や諸侯に謚号をつけねばならぬかを」 「それは…」 「『謚法解』に収められているのは百字もない。それで対応できるか?謚に用いる字を増やさねば、いずれ謚号は、呆れ果てる程に長いものになってしまうであろう」 「う−む…有り得ないとは言えませんね…」 「わしは、それゆえ今までにない謚号を用いるのも良かろうと考えた。それに、旧来の秩序に拘泥なさらぬ先帝であれば、その事で非難にさらされる事もあるまいとな…」 「しかし、代わりにあなたが…」 「なに、わしはしがない一史官よ。太史公(司馬遷)には到底及ぶまい。しかしな。わしは、確かに歴史の舞台に立った。あの時、先帝に出会えた事でかような福に恵まれたのだ。それがなによりの幸せというものよ。まぁ、今日の話はこれまでじゃ。続きか?気が向いたら、な…。」
505:左平(仮名) 2005/01/12(水) 01:01 ↑ちょっと諡号ネタでテンションが上がりましたもので、流れ無視で こんなの書いてみました。 南蛮王の本筋に絡むか一異説か…これもまた、三国志の魅力の一つ、なんて。
506:★ぐっこ 2005/01/14(金) 23:09 遅くなりましたが、左平(仮名)様GJ。 んー、でもちょっと呂布のキャラが南蛮王にしては立派かも。 こっちは別伝でしょうから、また時間あったら「史実」アレンジしてみるー。
507:左平(仮名) 2005/01/16(日) 02:25 ついでに、もう一つ。 そもそもこの南蛮王朝って、呂鳳(刀姫)が初代皇帝になるんですよね。 と、なると…武則天よりはるか先に、女帝陛下の誕生って事になります。 (二代目以降はどういう設定に?という部分もありますが) さらに…後漢の後に強力な統一王朝となると、後の中国史もだいぶ変わる とみていいわけです。 (いわゆる南北朝時代に突入したかどうか、という事にもなります) 上記の註釈の中に「南蛮書・左氏伝」というのを入れたのは、実はそのへんを 考えたからなんです。 (「〜曰く」という人物を、三国志ではおなじみの裴松之ではなくはるか後世の 趙翼にしたのも同様の理由からです) 南蛮王朝は、中国史においてはかなり異色の、それも長命王朝になったこと でしょう。 そうなると、その時代を描いた史書は膨大なものになります。おまけに、 「萌え」というキ−ワ−ドもあるわけですから、後世の史家泣かせな時代な わけです。 そのため、数多くの註釈がなされた…その一つが「左氏伝」ということでどう でしょうか。 他には… 「虞虎伝」(虞虎の註。多くの「〜伝」の中で最初に編纂された。現在では、これが 正史として扱われている) 「王川伝」(王川【玉川とする説もある】の註。「萌え」「顔陀武(ガンダム?)」 等の記述が詳細で、「虞虎伝」に続く評価を受けている) なお「左氏伝」は、「萌え」概念の記述が弱い為、「〜伝」の中では低評価に留まっている。 ただ、この註を書いた左氏の先祖は上記>504に登場する左史の平(呂布・鳳二代にわたって 仕えたと思われる)である為、一部貴重な記述もある、らしい。
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