下
★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
188: 2002/11/01(金) 21:52 玉川雄一 2001年12月25日火曜日 19時41分 あらら、また回ってきてしまった(^_^;) えー、では陸康の方は… 陸績の子の会稽南部都尉・陸宏と長水校尉・陸叡、張白に嫁いだ娘の鬱生ですか。これで打ち止め(?)のようです。 陸遜の方は…皆様ご存じでしょうが(笑) 陸延と陸抗。陸抗の子は晏、景、玄、機、雲、耽。 下の三人は揃って303年に死亡。一網打尽ですね。 ちなみに機の子の蔚、夏も同じ年に亡くなっています。 また、陸遜の弟の陸瑁とその子までは呉書に載っていますね。 陸瑁の子は滂、喜、英、偉、顔。喜の子が育。 で、陸英の子の陸曄(士光、261−334)が晋書に立伝されています。 「陸曄字士光、呉郡呉人也。伯父喜、呉吏部尚書。父英、高平相、員外散騎常侍。曄少有雅望、従兄機毎稱之曰、『我家世不乏公矣。』居喪、以孝聞。同郡顧栄與郷人書曰、『士光気息裁屬、慮其性命、言之傷心矣。』」 …で始まるのですが、コレって褒められてますか? 当初は文官ちっくに昇進したようです。散騎常侍、侍中、尚書、州大中正、光禄勲、太常、尚書左僕射、太子少傅、左光禄大夫… また軍事にも携わったようで、蘇峻の乱を平定して衛将軍になったり開府儀同三司にしてもらったり爵位を勧められたり。 「峻平、加衛将軍、給千兵百騎、以勲進爵為公、封次子暇(の編が古の字)新康子。」ってありますが… 密かに次男が陸暇(の編が古の字)だというのでしょうか。今発見♪ で、後に郷里に帰り、74歳で亡くなったとか。追贈して侍中、車騎大将軍。おくりなは穆。子の[言甚]は散騎常侍になりました。 …陸曄はこないでいかがでしょう? あと、弟の陸玩の伝もくっついていたりしますが(^_^;)
189: 2002/11/01(金) 21:52 ぐっこ 2001年12月25日火曜日 21時34分 うわわわ〜〜! たった一晩で…! ええと、NOBさまの黄帝〜桓公〜陸[門+広]からスタートして、おばら様の〜陸康〜陸績につづき、玉川様の陸瑁〜陸曄〜陸暇…と。 ……うわ〜っ(;^_^A こりゃあ、系譜にし甲斐がある〜。 なるほどお、「陸氏傳」だと斉の宣王の子・田達が、陸氏の祖だと…。ええと、宣王って孟嘗君の父・靖郭君のお兄さんですよねえ。だから、田(陸)達は孟嘗君にとって従兄。 しかし「陳留風俗傳」だとかすりもしない…。個人的には陸氏傳のほうが嬉しいですけど、たぶんこっちはウソのような気が(;^_^A でも陸氏傳どおりだと、やっぱり陸遜の血は黄帝まで遡るわけで…。斉の田氏を引いていたとは。 で、アフター陸遜(;^_^A 陸績の一門は案外早く打ち止め…。陸遜一族も曾孫の代でほぼ壊滅…。 陸瑁の一族がいちばん長引いたんですね〜。陸暇…って、何した方なんでしょう…?
190: 2002/11/01(金) 21:53 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時05分 一度ならず二度までも、、書き込みが反映されない〜!! …というわけで、しつこいですが、もう一度。 『陳留風俗傳』の記述を見て、ひょっとしたら、と思い、チェックしてみました。すると、、 『沙中の回廊』(下巻)に、楚の荘王が、洛水上流域に蟠居する陸渾の戎を討った、という記述がありました。 仮に、陸渾國=陸渾の戎と考えると、陸氏の故地は、華山の辺り(黄河がL字形に屈曲する辺り)という事になります。
191: 2002/11/01(金) 21:53 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時11分 陸渾國の姓が何であるのかまではどう調べればいいのか分かりませんが、斉の王室の系譜を拝借したのだとすると、あるいは陳と同じくキ(女に爲)姓だったのかも知れません。
192: 2002/11/01(金) 21:53 おばら 2001年12月26日水曜日 00時22分 はいは〜い(^-^;; 早速、陸家系図を作りましたー。 【玉屋】の玉川雄一さま、【逸聞三國志】のNOBさま、そしてぐっこさま。 ほんとに情報ありがとうございました。m(_ _)m うーん、この充実感は何?? http://www.our-towns.net/~kanso/riku-ke.htm にUPしましたんで、よろしかったら見てやってください。 また、ぐっこさまにはめいるにGIFを添付して送りました〜。怪しくないんで開けちゃってくださいな。 玉川さま、これからそちらにご挨拶に参りますです。
193: 2002/11/01(金) 21:55 NOB 2001年12月26日水曜日 00時53分 >おばらさま 作業早いですね(^-^; 力作、お疲れさまでした。手元の資料で系図中の「○」を少し補足できそうですので、書かせていただきます。 1.陸賈の父ですが、陸ヨウ(巛邑)だそうです。 2.陸続の父は陸桓(字・叔文)だそうです。桓には卬(ギョウ)・温という兄がいたらしいです。 ともに出典は『新唐書宰相世系表』です。 本来ならおばらさんに直接お知らせするべきでしたが、話題の流れ的にこちらにまとめて書いておく方が便利だと思ったのでぐっこさんのところに書かせていただきました。m(_ _)m #卒論、焦ってます(笑) >玉川さま おぉ、晋書に陸曄がいたのですか!知りませんでした…(オイ〜!) てっきり前漢の陸曄かと(爆) なるほど、勉強になります。 <陳留風俗伝 この件は、私が引いている論文でも触れられていました。索隠で先に『陳留風俗伝』の記述が引かれ『陸氏譜』のような説も他にある、といった感じで、史記索隠の著者である司馬貞も『陳留風俗伝』のほうを信じていたのだろう、と。しかし論文の著者である松本氏、「陸賈の「詩」「書」に対する豊かな教養を思うと、やはり『陳留風俗伝』には従えない」だそうです(爆) そんなもんなのでしょうかねぇ…? ちなみに陸賈について、『元和姓纂』は「呉の丞相陸遜は、陸賈の裔孫である」と間違って書いているそうな…ひょっとして、家系をよく見せようと思ったゆえの改竄があったのでしょうか?(^-^;
194: 2002/11/01(金) 21:57 おばら 2001年12月26日水曜日 01時35分 むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場! 大活躍ですな(^-^;; >左平(仮名)さま。 『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。 『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。 >NOBさま 追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。 >ぐっこさま 『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う〜む、色んな情報がでてくるなぁ・・。
195: 2002/11/01(金) 21:57 左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分 陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。 ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。 蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。 あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。
196: 2002/11/01(金) 21:57 ぐっこ 2001年12月26日水曜日 21時53分 >おばら様 系譜、修正版ともども拝領しました〜っ! は、はやい…。しかも精巧な…。可及的速やかにアップできるよう頑張ります〜!! いま趙家の系譜と並べてみてみましたけど、なんだか凄いですねえ…。神話の時代からスタートして、有名人を経由しつつもきちんと繋がってることに畏怖を覚えます! 新唐書色んな意味で恐るべし。 >NOB様 補足説明ありがとうございました〜! それにしても、陸氏ひとつでここまでの系図が出来上がってしまうとは…。繰り返しますが、新唐書の編纂者の執念に脱帽。 陳留風俗伝…軽く見られてますかな(;^_^A どーも、コチラの方が身も蓋もない書き方なので通っぽいですけど…。ただ、記述がアバウト。史家のツッコミどころも多いんでしょうか。松本先生…。 卒論がんばってください〜(;^_^A >左平(仮名)さま ということは、まず陸渾国の戎たちは、春秋時代、三國志で言うヘイ州あたりから弘農に移り(強制?)、その地に陸渾国をつくる、と。で、晋の文侯に攻撃されて楚に逃亡。で、しばらく後にこんどはまたまた楚の荘王に攻撃される、と。この時点で二派に分かれてたのかなあ…。 陳留風俗伝では、陸賈はこの陸渾国子の子孫。たしかに非漢人の血が濃ゆいですね〜。 宮城谷作品では、北方の民族は化け物みたいに強い場合が多いですよね〜! 三國志の呂布が楽しみです(;^_^A
197: 2002/11/01(金) 21:58 玉川雄一 2001年12月27日木曜日 21時17分 えー、では陸曄の弟の陸玩(士瑤、278-341)。彼の方が兄より記述が多めです(^_^) まあ、かいつまんで言えば兄と似たような地位を歴任したようです。 奮武将軍の地位は病で辞したようですが、蘇峻の乱の鎮圧において兄と共に功を挙げ興平伯になったり。 尚書左僕射だの尚書令だの左光禄大夫だの開府儀同三司で散騎常侍−この時何度も辞退しようとして結局押しつけられた(笑)らしい−だの。 子の陸始が跡を嗣ぎ、侍中、尚書になったそうです。 んで、陸玩の今一人の子が陸納(祖言、?-394)。「少有清操、貞萬絶俗」だそうです(ってどういう意味?) 建威長史、黄門侍郎、本州別賀、尚書吏部郎、呉興太守… 太常、吏部尚書、奉車都尉、衛将軍。 何やら、謝安を迎えるのに「茶果」だけで質素に迎えようとしたら、「其兄子俶」が(謝安に)豪勢な贈り物をあげたとかで陸納がマジ切れしてしまい、四十杖ほどしばいたそうです。 おそらく、陸納の兄の子が陸俶というのでしょうか。またも新発見♪ その後、兄の子の陸禽が罪を犯したために自らも免官を求めるも降格で済んだりして、尚書僕射、(尚書)左僕射、散騎常侍、尚書令に。 最後は会稽王・司馬道子絡みでなにやらあったようですが、まずは天寿を全うしたかと。 で、子の陸長生は先に亡くなっており、弟の子の陸道隆が跡を嗣ぎました。陸道隆は元熙年間(419〜420年!)に廷尉になったそうです。 陸納には「兄の子」として陸俶、陸禽がいるようですが… 陸始の子と考えて良いのでしょうかね。 父の跡を嗣いだのが陸始ということで、陸始が兄で陸納が弟と考えてみました。その他にもいたのかはわかりませんが♪ また、陸納の跡を嗣いだのも… 「(陸納の子)長生先卒、無子、以弟子道隆嗣。」とあったのですが、陸道隆は「陸長生の弟の子」と解釈してみました。 この手の記述って多いんですよね。関係が微妙に分かりにくくて大変です(-_-;) さすがに、これで打ち止めのようです。 どなたか、これより後の時代の陸氏についてご存じありませんか〜?(^_^)
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★ http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035723406/l50