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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
68: 2002/10/27(日) 22:47 黒竜[関東] > (2001/08/22(Wed) 21:17:19) 馬何羅が漢書などで莽何羅となっているのは明帝の皇后である 馬氏(馬援の娘)が修史官にお願いして変えてもらったらしいです。 そして、馬何羅を投げ飛ばして暗殺を防いだのが金旋、金イの先祖の金日テイですよね。 馬援主役の物語が陳舜臣の「続・中国任侠伝」にありますよ。 11号のおかげで神保町へは行けませんでした…
69: 2002/10/27(日) 22:47 ナナシサソ[東海] > (2001/08/22(Wed) 21:53:07) 桓栄は光武帝の時代の人みたいですね。後漢書に伝がありました。 ちらっと見ただけなのですが、どうやら高名な学者さんみたいですね・・・
70: 2002/10/27(日) 22:47 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:09:21) >玉川雄一様 おお〜! まだ尽きることなくご先祖・子孫ネタが!閻圃、というとあの張魯の軍師の閻圃!おお、閻立本ならよく耳にしますが、そのご先祖様ですか〜!意外な才能を後世に残しましたね…。 >ナナシサソ様 …なんだか↑の言い回しが違和感アリアリ…(;^_^A 名無しさん様、という意味になるのでしょうか…。いや、しれはさておき追加情報ありがとうございます〜! 陶淵明の曾祖父の曾祖父が、孟宗になる、という計算ですね〜! 当時の文化人とは、名門どうし、やはりどこかでつながっていのですね〜。確かに意外! >左平(仮名)様 はい!今確認いたしました〜!小説十八史略。馬何羅! なんだか異国情緒ある名前ですが、確かに武帝を直接刺殺しようとしてますね〜!それを防いだのが、金旋のご先祖!妙な組み合わせです(;^_^A それと桓温ですか!「竹馬の友」の語源! 「百世の名声を残せないようなら、万世の汚名を残すべし」とは相当の豪気!彼の友人達も迷惑だったでしょうね〜。 で、桓階のほうは…魏の尚書令にまで昇り、彼の孫は晋で栄達してる様子。かれが桓温と何らかの関係があるかどうか! 出身地でいうならば、文聘の後任である桓禺も怪しいかも。
71: 2002/10/27(日) 22:47 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:15:09) ↑うわあ、またオフラインの間に書き込みが〜! 黒竜様、追加情報ありがとうございます〜! なるほど、馬援の娘が、先祖の罪を隠そうと…いい話なのか悪い話なのか…。 ところで、11号ご愁傷様です〜。でも神保町いつかはいきたいです…。 >ナナシサソ様 さらに追加ありがとうございます〜! 桓温のはるか先祖様ですか〜!これが著名な学者だとすると、桓階の伝にも書かれるでしょうし…。やはり桓禺のほうが怪しいかも。
72: 2002/10/27(日) 22:48 左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 23:25:38) 趙雲のご先祖についてですが、、いくつか追記します。@趙雲の遠い遠いご先祖様かも知れない飛廉のご先祖についても宮城谷昌光氏の『王家の風日』に書かれていました。商王朝の初期に中衍という人物がおり、車の改善を王より命ぜられ見事に成し遂げた、とか、さらに遡ると、費昌という人物は、商王朝の初代・湯王の御者となり、鳴條の戦いにおいて夏の桀王と戦ったとか。費昌という人は、伯(王の名代として地方の諸侯を統括する権能を持つ)の位にあったといいますから、夏王朝の時代からの血筋という事になります。、、、本当に神話の時代にまで突入しちゃいましたね、これは。A同じく宮城谷昌光氏の『重耳』から。飛廉→季勝……趙衰という流れになるのですが、この……の部分にも、有名人がいました。造父(ぞうほ)といい、周の穆王に仕え、名御者として知られる人です。その功績によって邑を与えられてから「趙」氏を名乗る様になった、との事です。 さらに。『三国志』には何人か士氏・范氏が出てきますが、ひょっとしたらひょっとして、春秋時代一の名将・士会(范武子)の子孫なんて事は、、?中でも、士燮(字は威彦。交州に半独立勢力を築く)などは、まさしく士会の子と同姓同名。 またさらに。公孫サンや公孫度など、幽州方面に何人か公孫氏という人々がいますが、彼等もひょっとしたらひょっとします。というのは、春秋時代の君主の子孫は多くが公孫氏を名乗っているからです(例えば、鄭の名宰相・子産は穆公の孫である事から公孫僑ともいいます。商鞅は衛国の公族であり、公孫鞅ともいいます)。このあたりで公を名乗る程の勢力というと、、戦国七雄の一つ、燕が思い浮かびます。そして、その燕国の創始者の一族には、太公望・周公旦と並ぶ周王朝建国の元勲・召公セキの名が、、。もっとも、漢の時代には、投降した異民族が権威付けの為に公孫氏を名乗る事が多かったそう(塚本青史氏の『霍去病』より)ですから、匈奴の子孫、という可能性も大きいです。公孫サンが騎兵戦に長けていたのも、匈奴の血の影響あり、でしょうか?
73: 2002/10/27(日) 22:48 玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:24:06) 桓階ルートは別かな? 桓階伝によれば、彼の祖父は桓超、父は桓勝。桓階の嗣子は桓祐、 恐らくその他にまだ子が三人、その一人が桓嘉。東興で呉と戦い、韓綜とともに戦死した彼です。 桓嘉の子が?桓翊。また、桓階の孫に桓陵(字・元徽)がおり、司馬炎の時代にケイ陽太守になったそうで。 また、桓階の弟に桓纂。以上、魏書桓階伝および裴註からでした。
74: 2002/10/27(日) 22:49 玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:37:20) さて、呉書に桓彝なる人物あり。なにィ!と思ってみれば残念ながら桓温のパパとは別人。 しかしこちらの桓彝は、なんとまあ桓階の弟。しかも、呉に使えて尚書になっておりました。しかし、孫亮廃位に反対して孫[糸林]に殺されました。兄と違い、地元に残って呉に仕官したのでしょう。 さて、この桓彝、没年は258年ということになりましょうか。 一方、桓温パパの桓彝さんは字を茂倫、生没年276−328。こりゃ明らかに別人ですな。おまけにこちらの桓彝の父は桓ルなるお方だそうで。 で、望みの綱?の桓禺さん。彼が江夏太守となったという嘉平年間とは249〜254年のこと。桓ルよりも世代は上のようですねえ。
75: 2002/10/27(日) 22:50 ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 04:34:56) 桓栄(字:春卿)の出身も[言焦]郡竜亢なので桓階は別系でしょう。 桓禺が桓温の直系の先祖かどうかは晋書に記述が何もないのでわかりませんが、一族であることはほぼ間違いないでしょう。 桓ルについては桓彝が幼少のうちに無くなったみたいで、何もそれらしい記述はありませんでした。
76: 2002/10/27(日) 22:50 MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:50:22) ちょっと御堅いカキコが連続して申し訳ありませぬ〜〜(>_<) まず、「公孫氏が異常に多い」という事ですが・・・単純な理由があるんです。 それは「漢民族全員の祖である黄帝の姓が公孫だから」です。 ちょっとツッコむと、たしか史記の五帝本紀だったと思いますが、 黄帝は姓が公孫で帝鴻氏とも呼ばれ、黄帝の孫に当たる帝センギョクは高陽氏とも。 鴻や高陽を名としている方もいるので断言は出来ませんが、 一節によると、古来では姓と氏は別で、時が経つにつれて同一視されていったそうです。 ちなみに、黄帝以外の五帝(帝センギョク・帝コク・唐帝尭・虞帝舜)は全員黄帝の子孫で、 夏の始祖である王ウもセンギョクの子孫なので、黄帝の子孫。 さらには夏に限らず、商・周・秦も黄帝の子孫を名乗っています。 というように、ある意味「『公孫』を姓に持つ」という事は 漢民族にとっては超自然的な事だったのではないでしょうか?(^^) つまり、公孫サン・公孫淵・公孫述が皇帝を名乗るのは当然だったのです!!(嘘爆)
77: 2002/10/27(日) 22:50 MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:52:11) 訂正 「鴻や高陽を名としている方」→「鴻や高陽を名としている研究家」 わかりにくい表現で失礼しました。。(^^ゞ
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