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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
103: 2002/10/29(火) 23:02 左平(仮名) 「三国志全人名事典」から、姓または氏が同じというだけで「ひょっとしたら?」というご先祖候補の有名人をかたっぱしからピックアップしてみようかと、、。なお、出身地などは省略しておりますので、根拠は全くといっていいほど、ないです。また、韓・魏・趙、王・張・李・劉・曹・孫といったところは人数が多すぎるので省略。 【い】尹〜 尹佚(いんいつ:史佚とも)。周王朝初期の史官。成王がたわむれで弟の唐叔虞(晋国の祖)を「封じる」と言ったのを「そのとおりになさる様に」と諌める。「天子に戯言があってはならないのです」というのがその理由。→『重耳』(上) ・尹黙、尹賞など。 【え】衛〜 衛青(えいせい)。前漢・武帝の衛皇后の弟にして、大将軍。匈奴との戦いで戦功をあげる。彼の死後、巫蠱の乱(ふこのらん)で一族は滅んだはずですが、あるいは、、。→『霍去病』『中国傑物伝』 ・衛カン(王に灌の右側)、衛茲など。 【え】閻〜 閻楽(えんらく)。秦の宦官・趙高の親戚。二世皇帝・胡亥を自殺に追い込む。それだけ。→『小説十八史略』 ・閻圃など。 【か】華〜 華元(かげん)。春秋時代中期・宋の宰相。出目で太鼓腹という愛嬌あるキャラクタ−。晋・楚二大国の和平を斡旋。→『華栄の丘』 ・華キン(音に欠)など。 【か】カイ(萠にリ)〜 カイ通(かいとう)。韓信に「天下三分」を説いた説客。→『史記の風景』 ・カイ越・カイ良兄弟。 【か】霍〜 霍光(かくこう)。前漢の昭帝・宣帝を支えた実力者。「関白」の語源でもあります。彼の死後、霍氏は滅ぼされているはずですが、あるいは、、。→『霍光』 ・霍峻、霍弋親子など。
104: 2002/10/29(火) 23:51 左平(仮名) 2001年09月30日日曜日 20時00分 【こ】伍〜 伍子胥(ごししょ)。名は員。子胥は字。楚の名臣・伍挙の孫。父と兄を楚王によって殺された為、呉に亡命し、楚王の屍を鞭打って復讐したという。後、讒言を信じた呉王によって自殺させられ、屍は長江に流された。なお、彼の子は斉の鮑氏に託されたという。伍子胥=孫武という説もあるとか。→『小説十八史略』 ・伍朝など。 【こ】高〜 高固(こうこ)。春秋時代・斉の名族。斉が晋の大臣・郤克(郤缺の子。容貌が醜悪だった)を辱めた直後に晋が主催する会同(国際会議)に出席せざるを得なくなったが、郤氏の報復を恐れて引き返す。なお、彼にかわって会同に出席した事で、晏弱は一躍有名になり、後に彼の子の晏嬰が宰相の位に登るきっかけとなった。→『晏子』 高柔・高幹など。 【こ】国〜 @子産(しさん)。春秋時代・鄭の名宰相。孔子に敬仰された、当代随一の知識人。一代改革を断行し、初めて成文法を作った人でもある。氏名はふつう公孫僑といわれるが、彼の父の字が子国であった事から、彼の家は国氏ともいわれる。→『子産』 A国左(こくさ)。春秋時代・斉の名族。なかなかの辣腕家であったが、崔杵の策謀にかかり、粛清される。→『晏子』 ・国淵、国泰親子。
105: 2002/10/29(火) 23:52 左平(仮名) 2001年09月30日日曜日 21時00分 【さ】崔〜 崔杵(さいちょ)。春秋時代・斉の人。斉を強国とした名臣であったが、斉公が妻を奪おうとしたのに対して激怒し、ついに斉公を殺害する(この直後、「崔杵弑其君」という記述をめぐって史官と対立)。数年後、彼の一族は滅びるのですが、彼の子の一人は魯へ亡命し、生き残ったそうです。なお、『世説新語』には、晋代にその子孫の崔正熊という人物がいたという記述があるとか。→『晏子』 ・崔烈、崔林、崔エン(王に炎)など。 【し】荀〜 荀林父(じゅんりんぽ)。春秋時代・晋の宰相。名将・士会と同時代の人であるが、割と温厚かつ平凡な人。彼の子孫が中行氏を、彼の弟の子孫が知氏を名のる。→『沙中の回廊』 ・荀掾A荀攸など。 【し】淳于〜 淳于コン(上は髪の上部、下は几)(じゅんうこん)。奴隷出身。人の心理を読むのに長け、ユ−モアに富んだ人。確か、彼の子孫の一人に、かの鑑真和上が。→『小説十八史略』『反骨列伝』 ・淳于瓊など。 【し】上官〜 上官桀(じょうかんけつ)。前漢の武帝の護衛。武帝が崩ずる際、霍光らとともに後事を託される。後、霍光と対立し、一族もろとも滅ぼされる。しかし、あるいは、、。→『霍光』 ・上官崇など。 【と】東方〜 東方朔(とうほうさく)。前漢の武帝の時代の人。博学多才のユ−モリスト。塚本ヨ史氏の作品では、体を自由自在に折り曲げる事の出来る長身の美男という設定。→『霍去病』 ・東方安世。 【と】董〜 董狐(とうこ)。春秋時代・晋の史官。趙氏が晋公を殺害したのを「趙盾弑其君」と記した(趙盾自身が晋公を殺したわけではないが、一族の者が起こした事件に対し、趙氏の総帥であり、かつ亡命直前とはいえ一国の宰相であった趙盾にはそれを止める責任があったとみなした)事で孔子に賞賛される。→『孟夏の太陽』 ・董遇など。 【は】白〜 白起(はくき)。戦国時代・秦の常勝将軍。長平の戦いでは、趙軍45万のうち5万を戦死させ、残る40万をすべて穴埋めにして殺したという。後に自殺を命じられる。→『白起』 ・白波など。 【は】樊〜 樊カイ(口に會)。漢の高祖・劉邦の護衛。劉邦の正妻・呂氏の妹の夫でもあります。彼と呂氏との間の子は呂氏が滅ぼされた際に殺されていますが、他はどうなのか、、。→『小説十八史略』 ・樊稠など。 【ほ】鮑〜 鮑叔(ほうしゅく)。名は牙。叔は字。春秋時代・斉の人。「管鮑の交わり」で知られる。→『管仲』(現在連載中との事。著者は、もちろん、宮城谷氏です) ・鮑信など すみません、一つ訂正が。【け】の「ケイ」ですが、「刑」ではなく、「刑の左側に郤の右側」です。 また、ご先祖?の追加を。 【ら】欒〜 欒氏。西周時代に晋の公室から分かれた名家。欒書(らんしょ):春秋時代、晋の宰相。讒言によって郤氏を滅亡させた後、晋公(q公)を殺害。彼自身は普通に亡くなっているが、孫の代に士氏と争い、滅ぼされています。→『子産』 ・欒文博。 【よ】羊〜 羊斟(ようしん)。春秋時代、宋の人。戦いの前に、不吉さを感じた華元が羊の肉を与えなかった事を恨み、華元を敵中に放置する。後、華元が宋に帰還すると、魯に亡命する。→『華栄の丘』 ・羊コ(示に古)など。、、ただ、死後、住民たちが石碑(祭りの時にはその死を悼んで泣いた為に堕涙の碑と呼ばれたという)を建てたという名将・羊コの先祖としては恥ずかしすぎますが、、。 【ほ】北宮〜 北宮佗(ほくきゅうた)。春秋時代、衛の人。北宮氏は、衛の名家です。楚の霊王の最期を預言。→『子産』 ・北宮玉。
106: 2002/10/29(火) 23:52 玉川雄一 2001年09月30日日曜日 20時10分 遡りますか! 意外なのが判明すると楽しいですね。 で、ご協力できないのが恐縮ですが… 高柔と高幹どうしも縁続き(ちょっと遠いけど)らしいんですよね。 何となく意外でした。やっぱり高幹もただもんじゃありませんのね。
107: 2002/10/29(火) 23:53 ぐっこ 2001年10月01日月曜日 01時26分 うわあ、これはまた膨大なリストアップありがとうござます〜!左平(仮名)さま! 中国の思想として、同姓を遡れば元はひとりと換算するそうですから、上記の人物達はそれぞれ共通の先祖を持っていたと考えられてたでしょうね。 で、比較的近い血族を捜すのにまず見るのが本籍の所在地ですが…。まずピンと来るのが、衛青━衛カンのライン。出身地は隣同士です。襄陽のカイ兄弟については、カイ通の子孫であると明記されてますねー。 郤正も河南の出身ですから、郤氏の血脈であるっぽいです。国淵、国泰も旧斉領の辺境・楽安出身ですので、国左の血を引いてるかも。あと、荀子は潁川荀氏の直系の先祖の様子。 ひとつ気づきましたが、食い物の恨みであの名宰相・華元を敵に売り渡した羊斟と言う人物、これは後世につけられたあだ名のようです。「羊斟」とは、文字通り「羊のスープ」という意味で、これこそが華元が彼に与えなかったメニューです。中国人の命名法って…。 とにかく、羊[示古]は彼の血を引いてなさそうで、彼のファンは一安心。 あ、それと鮑信の本貫は泰山郡。鮑叔の子孫は代々斉の正卿だったようだから、血縁があるかもしれません…。」 ……う〜む。ざっと先祖の氏を紐解いただけでも、けっこう春秋以前の歴史と三国志が繋がるものですね!
108: 2002/10/29(火) 23:53 ぐっこ 2001年10月01日月曜日 01時29分 あ、高柔は高幹の「従弟」あるいは「叔父」のようです。家系図を見る限り叔父のようですが…。 固 ┃ 慎 ┃ 式 ┃━┳━┓ 靖 昌 賜 ┃ ┃ 柔 躬 ┃ 幹 ふ、IEで見るとまたズレるんでしょうねえ…。LINUXなら大丈夫なのに…。」
109: 2002/10/29(火) 23:54 おばら 2001年10月01日月曜日 04時01分 左平(仮名)さん、はじめまして。おばらと申します。 樊カイの子孫についてですが、 呂シュ(呂后の妹)との間にできた嫡男の樊伉は、呂氏討滅のドサクサに紛れて母と共に殺されてしまいます。 しかし、樊カイには庶子があり、樊市人が家を継ぎました。29年して樊市人は死に、子の樊他広(もしくは樊佗広)が継ぎ、6年して平民におとされました。 その後も細々と家は続いたようで、王莽に毒殺された平帝の時(紀元2年)に、樊カイの玄孫の子の樊章が祖先の舞陽侯の爵位を継いだとか。 その後は、知りませぬ。(^^;; お騒がせしました〜。
110: 2002/10/29(火) 23:55 おばら 楊喜 | ■ | 楊毋害 | ■ | 敞 司馬遷 |――+ │ 忠 ヲ = ○ | │ 譚 ■(酒泉郡に配流) | 宝 | 震 |―+―+ 牧 秉 奉 | │ │ ■ 賜 [専文] | │ │ 奇 彪 衆 | │ 亮 脩 │ 囂 │ 準 │――+―+ [山喬] 俊 髦 以前、話題になっていた楊氏を系図にまとめてみました。 きっと稚拙な頭脳で書いたので間違いだらけでしょう。 おおめに見てやってくださいましー。 なお、晋書は参考にしてません(知らないとも言う^^;)ので、 晋書を通読された方なら書き足すことができるでしょう。 玉川さまあたりなら・・・(他力本願)
111: 2002/10/29(火) 23:55 おばら 2001年09月28日金曜日 01時57分 んぎゃ〜〜〜〜 ずれちまった!! 楊ヲの妻は、司馬遷の娘です。楊ヲは楊忠の弟です。 あとずれた所は、楊囂以下全てですゥ(泣)。 楊囂は楊脩の子どもです。 ホントにすみませぬ〜。ごめんなさいデス。
112: 2002/10/29(火) 23:56 玉川雄一 2001年09月28日金曜日 10時11分 では引き続き。いや、別に苦しくなんてありませんから(^_^) 楊準の子に楊[山喬]、楊髦、楊俊の3人を挙げられていますが、 楊[イ全]期伝によれば彼の祖父は楊林というそうで、 楊林も楊準の子にあたるので4人兄弟ということになりましょうか。 で、楊林の子が楊亮。その子が楊[イ全]期(?-399)。 楊[イ全]期には兄の楊廣(?-399)、弟の楊思平(?-408)がいました。 また、彼らの従弟に楊尚保という人物もいたそうです。 「(兄弟)皆強C粗暴」ってあるので、ワイルドな兄弟だったのでしょうかね。 楊[イ全]期は武勲著しく、一旦官を退いてのち荊州刺史殷仲堪の麾下に属しましたが、 桓玄と戦って兄の楊廣と共に戦死しました。 その首は都(建康でしょうか)にさらされたそうです。 事情がうまくつかめないのですが、当初は殷・楊とも桓玄に従って叛乱を起こしたらしいのですが、 結局桓玄と戦うことになって戦死したようです。仲間割れ? 反乱軍の首魁、桓玄に討たれたとはいえ、楊[イ全]期も当初は桓玄に与したということで、梟首ということなのでしょうかね。 この時楊思平、楊尚保は逃れましたが、「思平、尚保後亦以罪誅、楊氏遂滅。」とあります。楊林の系統はここでジ・エンドの模様。 ちなみに、安帝紀(司馬徳宗)義熙4年11月の項に、「梁州刺史楊思平有罪、棄市。」とあるのはこのことでしょう。 また、同年12月には陳留王曹霊誕薨ずともあります。陳留王家、まだ続いていましたのね。 楊氏の他の系統はまだ続いたのでしょうかね。まさに大河一族! さらにこの先をご存じの方へバトンタッチ!」 そうそう、義熙4年は西暦408年です。念のため。 5世紀に入っても三国志関連人物のネタがあるとは、 恐るべし中国…
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