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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
151: 2002/10/30(水) 23:23 ぐっこ 2001年11月11日日曜日 00時37分 うわはは〜! なんだか大変なことになってますね〜唐代の家系図。 顧氏や鍾氏はまあいいとして、なぜに薛蘭…あえて子孫を名乗りたいとは思わない人物ですが…。 ところで! 崔州平と崔鈞って同一人物なんですか!? ちょっと年代がズレてるような…(いずれも崔烈の息子ではありますが…)
152: 2002/10/30(水) 23:23 黒竜 2001年11月11日日曜日 01時52分 崔州平、原文が 「烈、後漢太尉、城門校尉、生鈞、字州平、西河太守」となってます。 兄貴の名前が崔均なんであっさり信じたんですが… 疑う余地はありそうですね。 それと薛蘭ですが意外にも名家のようです。 薛蘭の父や祖父も国相や太守を務ています。てっきり呂布配下の并州人かと思ってましたが… 薛永は蜀郡太守、その子の薛斉は蜀・巴の太守を務めたらしいのですが蜀書には出てこないですね………(??) ちなみに一番あやしいのは関羽です。 関竜逢(商)…→関羽→関興(三国)…→関播(唐) アバウトすぎ
153: 2002/10/30(水) 23:24 左平(仮名) 2001年11月11日日曜日 10時57分 唐書についての知識は皆無なので入り様がないのですが、、関龍逢の名が出てきたので、ちょっと説明を。 関龍逢とは、商ではなく、夏王朝末期の人です。桀王の暴虐をたびたび諌めましたが、ついに殺されたという名臣です。ちなみに、彼は関氏ではなく、関龍氏だった様です。宮城谷昌光氏の『天空の舟』に、「、、夏の社の神体は、「交龍」である。、、そのおさめるところは河水(黄河)である。、、ここの最高責任者は関龍家であった。、、」という記述があります。 関羽以前で名の知れている関氏といいますと、、 ・春秋時代初期の鄭の大夫、関其思(戦略的には正しい事を発言したのだが、武公の意図を読み切れなかった為に処刑される。「韓非子」(説難篇)に登場。鄭というと、河南省のあたりでしたから、河西の人・関羽とのつながりは?です)。 ・老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。確か、関喜とかいった様です。もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。
154: 2002/10/30(水) 23:24 中根東竜 2001年11月11日日曜日 17時58分 どうも、ご無沙汰の中根です。 >『新唐書』宰相世系表 なんか懐かしいなぁ。いや、4年ほど前「『三国志』の注釈を 全部読破してやろう」と思って注釈だけまとまった『二十四史補編』 なる中国書を読んでいたことがあったのですが、そこの賈クの 箇所の注に『新唐書』宰相世系表が引用されていたのですよ。 んで、賈クには賈疋なる孫がいた、そうで・・ >玉川さん >これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、 偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。 価値はあったでしょうね。唐の時代はまだ貴族社会の色が濃い(庶民から科挙を通って朝廷に仕官した官僚と、貴族が派閥争いをやっていた)んで、庶民上がりや元来中国人ではない人でも名門の末を主張した人物は結構居るのではないでしょうか。貴族社会は能力より血筋を 重んじますからね。 それで『三国志』系マイナー武将を子孫と称した人物が多かったのでは?記録がない人物なら文句はいわれませんから。 もしつっこまれても「家に伝わる記録ではこーなのじゃっ!」 と言い返せるので。 まあ、怪しいといえば怪しいのですが。怪しい具体例を挙げると、隋の皇帝の楊家は「楊震の末裔」を称していたのですが、現在の学界では「騎馬民族・鮮卑族の末裔」とするのが定説化しているようです。 >関龍逢 左平(仮名)さんのおっしゃる通り、夏王朝末の人ですね。 結構諸子百家の世界では有名人で、「暴君を諫めて殺された賢臣」 として『韓非子』などに登場します。なお、『韓非子』の有力な 注『韓非子翼毳』(かんぴしよくぜい)に依れば、大本の 出典は『韓詩外伝』だそうです。 なお、宮城谷昌光氏が関龍家とする根拠はよくわかりません。 王雲五氏の『辞源』では「関・龍逢」として区切っています。 関姓という説もあるのでしょうか?まあ、『韓詩外伝』を 見ないとわかりませんが・・ >老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。 これは関尹喜(かんいんき)のことですね。ただ、この人の名は 「尹喜」で「関所役人の尹喜」が「関尹喜」となっているみたいですよ。関姓ではないようです。 >もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。 そういう説を中国の故・郭沫若氏は主張していたようですね。「関尹喜」は「関尹」(関所役人)という普通名詞であり、固有名詞ではないと。 まあどっちにせよこれも調べないとなんともいえませんが。
155: 2002/10/30(水) 23:24 黒竜 2001年11月11日日曜日 23時19分 左平さん、中根さん、私の雑な話題に注釈を入れてくださってありがとうございます。 何しろ新唐書のあまりの書きっぷりに興奮冷めやらぬもので… 賈クの親兄弟まで名を連ねてますから(父はキョウ、兄は綵)。 関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました… 殺されたということは湯が子孫を封じたりしたのかな?? 姓氏は復姓が単姓に改まることもあるようなので「関姓」全体の始祖という位置づけみたいです。 他の項でも最初は伝説的人物からはじまってます(炎帝や黄帝が…)
156: 2002/10/30(水) 23:24 ぐっこ 2001年11月12日月曜日 00時38分 >崔氏 いまのところ手元の資料は三国志と辞書だけの状態なので、詳しくは判らないんですが…。崔鈞は、「銅臭ェんだよオヤジは」って言った人ですよね(西河太守として反董卓連合にも参戦)。で、崔州平は孔明の友人。崔均はその州平の兄。 …やっぱり三(以上?)兄弟っぽい状況ではありますが…。 あと、薛氏! ひょっとして本籍、徐州とか豫州のへんですか!? もしそうだったら、孟嘗君と関係あるひとかも…。う〜ん! こりゃあ意外な事実!? 私も李封とかといっしょで、呂布の子飼いかと思ってました(こうなると、李封も案外、エン州李家の一族だったり…じゃあ李乾とは同族?)。 三国志って、どこまで奥が深いんだ〜!! >関氏 関羽以前の伝説になりますと、そりゃあうさんくさい話がいっぱい(;^_^A 唐代の人もやりたい放題だったでしょうね〜(たしか馮氏説もあったような…)。 それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。 三国志の小説を書かれてる作家(特に宮城谷先生)、どの程度まで「後世の」三国志史料を引用するか見物ではありますよね〜!(;^_^A 賈クの兄弟まで名前が「伝わって」るのか…。
157: 2002/10/30(水) 23:25 左平(仮名) 2001年11月12日月曜日 20時43分 宮城谷三国志でどの程度まで「後世の」資料を使うかですが、、一つ、蛇足までに。 第一回で楊震の「四知」という言葉が出てくるのですが、その内容は資料によって若干のずれがあります。元ネタの『後漢書(楊震伝)』では「天知る、神知る、我知る、子(汝)知る」、『資治通鑑』では「天知る、地知る、我知る、子知る」となっているのです。 そして、宮城谷三国志で採用されているのは、後者です。「天、神」よりも「天、地」の組み合わせを好んだというのもあるでしょうが、『資治通鑑』は北宋の司馬光の著作ですから、ひょっとしたらひょっとします。 場合によっては、清の歴史家・趙翼の『二十二史箚記(にじゅうにしさっき)』(二十二史=二十四史【『史記』から『明史』まで】−二史【『旧唐書(くとうじょ)』・『旧五代史』】。箚記=書物を読んで得た感想や考えなどを随時書き記したもの。 )まで出てくるかも、、もうここまで来たら、私にはちんぷんかんぷんなのですが。以上、角川書店の『新字源』から。
158: 2002/10/30(水) 23:26 黒竜 2001年11月12日月曜日 20時52分 残念ながら薛蘭は孟嘗君とは無関係なんです。 自分も薛氏と言えば薛綜の子孫とばかり思っていたので度肝を抜かれたんですが、 周初から春秋はじめまで薛侯であった家のようです(信憑性はともかく)桓公に逆らって国替えされ、 その後楚に滅ぼされると博徒などに身を落としていたようですが、漢初に黥布討伐の献策をした薛公がでて再興し、薛蘭へ… …あやしい……博徒のあたりが限りなくあやしい… 李封は見つかりませんでしたが、今度は広武君李左車が趙郡李氏の系図のなかにいました。趙の名将李牧の孫らしいんですが…これって史記に書いてありましたっけ? あと崔鈞と州平のことですが、仮に同一人物だとしたら 軽蔑していたとはいえ戦乱に死んだ父の人生に無常を感じ、 荊州に流れて以後仕官せず… なんて、あまりにも小説的すぎますね…
159: 2002/10/30(水) 23:27 ぐっこ 2001年11月13日火曜日 01時23分 >左平(仮名)様 ふえ…。宮城谷先生がそうである以前に、左平様の史料の幅広さに呆然としておりますが、いかがお過ごしでしょうか(;^_^A 四知…わたしも後者の天地バージョンしか知りませんでした〜(;^_^A そうか、原文は天と神だったわけですね…。当時の様式からいって、そのほうが正解なんでしょうけど…。 しかしまあ、田中芳樹先生が仰ってた「演義さえろくに読まずに三国志モノ書いて、中国小説を書いたと宣伝する勘違いしてる作家(女将軍伝あとがきより)」が雨後の竹の子のように生え揃ってる中、宮城谷先生は目立ちますよね〜。 >黒竜様 薛蘭、孟嘗君の薛氏とは違いましたか〜。残念なようなホッとしたような…。でも孟嘗君以上に名門なんですね〜! ……本当だろうか(;^_^A それに李氏。李左車が李牧の孫…? う〜ん…? なんか、趙の名将の孫かひ孫が、これまた有名な人物だった…という話をどこかで読んでるんですけど…たぶん李ではなかったような…。 後世の家系図は、つなぎ換えも承ってるのか!?(;^_^A それと崔修平。崔鈞と同一人物だとすると、なるほど……ドラマチック。後漢末の爛熟した空気にうんざりしてたうえに、董卓と真っ向から対立…。疎開先の襄陽アカデミーで、見込みのある若者に政治の要諦を伝える…。崔修平、案外格好いい人かも…
160: 2002/10/30(水) 23:27 中根東竜 2001年11月13日火曜日 14時36分 >ぐっこさん >それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。 前の投稿で挙げた史料は神保町に3年ほど足繁く通って(神保町は通勤・通学ルートの途中なので)、かき集めた物です。 ですから、神保町に通えばぐっこさんも入手できますよ。 >関羽 『新唐書』をみてみましたが、関氏系図は唐の徳宗の宰相を やっていた関播という人物のでっち上げかも。 だって、始祖が伝説の人物・関龍逢で、その後全く記述無く 関羽ー関興と続くのは非常におかしいです。その関興の子孫を 称した人々が住んでいた地域も魏の領土内の信都ですからねぇ。 なんで蜀の武将の子孫が魏に移動しているのでしょう? しかも、他の系図には最近の人物が複数書かれているのに、関氏 系図のみは関播一人のみ。・・これは妙ですな。 >黒竜さん >関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました… これは単純に『新唐書』の誤りと考えて良いと思います。歐陽脩(『新唐書』の筆者)も何でこういうケアレスミスをするかなあ? もっとも、この系図自体先に述べたように関播の偽作の可能性が 否定できないので、関播が朝廷に提出した系図が既に誤っていた のかもしれません。 >左平(仮名)さん 『資治通鑑』を使うのは中国史の記述をするときには良くありますので、他の後世の史料とは分けた方が良いかも。 『資治通鑑』は、正史以外の実録・野史の類を司馬光はふんだんに持っていて、それをかなり正確に配置しているので、正史の次に(正史が誤っている時には正史以上に)重んじられる史料ですからね。後世とはいってもこれは別格。宮城谷氏が使うのも良く分かります。 なお、『二十二史剳記』は新しい史料を引用するのではなく、 単に正史の事項を研究した本なのでちょっとこれは用いないでしょう。 四知の話しも載っていないはずです。
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