下
★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
20: 2002/10/27(日) 22:04 黒竜[関東] > (2001/07/28(Sat) 01:04:39) 正確には田村麻呂の先祖の阿知使主が、「霊帝の曾孫の阿知王」 を称していたらしいです。 案外、本人はイヤだったかもしれませんよ。だって阿知王なんていないし… ちなみに玄奘の曾祖父は陳欽という人で北魏末期の上党太守だったらしいです。 陳覇先も陳寔を祖と称していますし(陳書に歴代の名前が載ってます、怪しいけど…) 現代でも潁川の陳氏を祖と称する人は何百万といるそうです。
21: 2002/10/27(日) 22:04 おばら[関東] > (2001/07/28(Sat) 01:42:04) ちは〜っす。おいらも参戦させてくだされ。 とか言いながら、三国志とは離れてしまうのですが、日本の飛鳥時代に広隆寺を建立した秦河勝(はたのかわかつ)という人物は、秦の始皇帝の子孫を名乗ってます。その後もこの家は長く続き、雅楽を伝える家として現在も残っています。そう!CDを次々と発売し、今を時めくあの東儀秀樹がその子孫なのです!! また秦氏の分家に、能俊(よしとし)という人物がいて鎌倉期に地頭として土佐国長岡郡曾我部に赴任しました。その直系の子孫に土佐の英雄・長曾我部元親がいるのです。秦の始皇帝の血は日本に残っていたのか〜・・・・・って、信憑性低すぎ^^; 偽三国迷のおばらでした。
22: 2002/10/27(日) 22:04 ふみ[四国] > (2001/07/28(Sat) 15:34:43) 『梁書』(巻50列伝44)に出てくる盧廣は、盧[言甚]の子孫らしいですよ。范陽(涿)の盧氏は、ちょくちょく正史で名前を見かけますね〜。
23: 2002/10/27(日) 22:09 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:42:27) おお、さらなる盛り上がりを! >japan様 なんと!? 丹波哲朗ですと!? じゃあ高祖劉邦から始まった漢王朝の血統は、傍系・庶系を交えながら霊皇帝・劉宏を経、阿知王(誰?)、坂上田村麻呂を輩出し、20世紀日本で丹波哲朗を産み出したわけですか〜!!想像以上に壮大なスケールになっております(;^_^A あと、玄奘系。う〜ん、ヒトクチに陳寔の子孫といっても、幾流かには分岐してしまうんですね…。確か六兄弟でしたっけ(うろ覚え)…?でもやっぱり陳紀−陳羣−陳泰コースを激しく希望! そうか、荀揩フ血も引くわけですね、玄奘。 >松竹梅様 想像以上に盛り上がっています(^-^ さすがに清流貴族の血統は息が長いようですね。まあ、日本だって公家さんの血脈は千年続いてますが。 玄奘が出家したのは、生家がそれほどの貴門でなかった為なのか、単に信心深かったのか…。何にせよ、シルクロードを踏破するからには、相当に頑健な躯をしていたのでしょう。やはり陳泰の血胤希望! >玉川様 それです! 丹波哲朗にしても坂上田村麻呂にしても、なんでよりによって霊帝なんでしょうか? どうせ遡るなら光武帝にしてもいいだろうし、なんなら中山靖王の末裔(;^_^Aを名乗っても支障はないでしょうに!やっぱり知名度と「霊」の語感の故か!?
24: 2002/10/27(日) 22:09 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:42:46) >黒竜様 やっぱり陳氏の末裔は山ほどいらっしゃいますか(;^_^A 確か現在の魯国は、孔子の子孫を名乗る方が五人に一人いらっしゃるとか。しかもみんなが持っている家系図がバラバラ(;^_^A でもあまり気にせずに主張し続けるあたり、中国人のスケールの巨きさが伺えます。 ところで霊帝の曾孫…ということは、献帝の孫、ということですか。いま手元に献帝紀が無いので調べよう無いんですが、彼の子孫はその後どうなってるんでしょう? 「阿知王」って、あからさまに日本名っぽいんですけど(;^_^A >おばら様 やや、史記の方面の参戦かたじけないです〜! こんどは始皇帝の末裔!? ――あ、渡来の秦(はた)氏って、始皇帝の「秦」を名乗っていたわけなんですか!? いま初めて気づきましたっ!! そして今は雅楽大家で(;^_^A いや、始皇帝直系かどうかはともかく、秦の遺民の末裔である可能性は結構高いですね!ふええ。 で、さらに秦氏は長曽我部氏の祖でもあるわけで。こりゃあ、意外な事実ばかり! 奥深すぎです! >ふみ様 おお、盧[言甚]の子孫も全滅していなかったのですね!? じゃあ盧植の血も途絶えず!意外に北方で幅きかしてたんですね、盧氏…。通史でざっと目を通すだけでも、かなり意外な人間関係というか人脈のあり方が見えてきて、三国志がよりいっそう面白くなります!!
25: 2002/10/27(日) 22:09 玉川雄一[関東] > (2001/07/29(Sun) 01:34:35) 献帝には三人のお子さんがいらしゃったようです。 劉熙、劉懿、劉敦。彼らがそれからどうなったかは存じ上げませんが… 晋書には、285年に献帝嫡孫の山陽公劉康が死去したと記されています。 また、289年には同じく山陽公の劉瑾の死が記録されています。 ちなみに、4世紀のどこかで陳留王(曹奐の裔でしょうか)の代替わりをみた記憶もあります。 何やら細々と続いていたようですね。
26: 2002/10/27(日) 22:10 黒竜[関東] > (2001/07/29(Sun) 13:58:10) 献帝の子孫は、康→瑾→秋と続き、秋が永嘉の乱で胡(民族名不詳) に殺されて国も絶えたみたいです。
27: 2002/10/27(日) 22:10 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 21:19:09) なるほど、山陽公国というのは意外に長く続いたのですね。永嘉の乱、ということは呉王朝が滅亡してからさらに30年は保っていたわけで…。 それにしても、献帝の子孫で行方の明らかなのは嫡流だけ。ということは次男・三男の血統はまだ絶えずに丹波家を流れ続けているのか〜ッ!? 個人的には、是非そうあって欲しい(;^_^A それに曹家の裔が地方の封王として残り続けていた事も驚きです〜! まだ縁故血類鏖殺、などという血生臭い風ではなかったのですね…。せいぜい三族どまりなんでしょうか?
28: 2002/10/27(日) 22:10 松竹梅[関東] > (2001/07/29(Sun) 23:28:42) 三国時代って平和ですよね…まだ東晋十六国南北朝時代(縮めて言えば六朝時代だってことに今気付いた)は滅亡した王朝の一族はほぼ根絶やしですからね。 こちらも田中芳樹氏の小説より引用「新しい天子さま(梁の武帝)はなんと寛大な御方じゃ。前王朝の皇族を五人しか処刑なさらなかったぞ」(『長江落日賦』)
29: 2002/10/27(日) 22:11 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/31(Tue) 00:23:35) 五人しか…(;^_^A そういえば三国時代に、敵の皇族を次々殺した、なんて話は聞かないですね〜。例外と言えば劉禅の息子がドサマギに殺された(要領の悪い…)くらいですか。やっぱり平和というか、ゆったりしてますね〜。あまり将来の禍根になりそうなのが居なかったから、という事もあるでしょうが…。
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