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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
147: 2002/10/30(水) 23:21 ぐっこ 2001年11月11日日曜日 00時37分 ちょっと話はそれますが、今日の「聖徳太子」に秦氏登場!なんか日本史を影で操ってましたな(;^_^A あの家系図のおかげで、「あ、いまの秦氏って、東儀とか羽田元首相のご先祖やねんで!」と知ったかぶりが出来ました(;^_^A
148: 2002/10/30(水) 23:22 黒竜 來氏の続きですが… 先日、新唐書を読む機会があったんですが、表の宰相世系が凄すぎます。 唐の歴代宰相の家系図を並べているようなんですが… 袁氏の項目に袁煕、姜氏の項目に姜維、閻氏の項では閻甫の名前が… 探せばまだいるかもしれません。 凄いというか、凄いあやしいと言うべきか…
149: 2002/10/30(水) 23:22 ぐっこ 2001年11月10日土曜日 01時03分 唐代ですか〜! もうやりたい放題のようですね(;^_^A 何処の国でも家系図偽造は当たり前だったんですね…。 でも絶対嘘とは言い切れない人もいるでしょうし…。そもそも同姓同族の原則で言えば、嘘を付いているわけでも無し。 しかしうさんくさいなあ…(;^_^A
150: 2002/10/30(水) 23:22 玉川雄一 2001年11月10日土曜日 08時57分 ある意味そうそうたる?ラインナップでありますね。 閻氏は何やら続いていたそうですが… これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、 偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。 また、必ずしも直系でもないと考えていいのでしょうか? いわゆる「○○をもって(祭祀を)継がせる」ってヤツ。 しかし何故袁熙(^_^;)
151: 2002/10/30(水) 23:23 ぐっこ 2001年11月11日日曜日 00時37分 うわはは〜! なんだか大変なことになってますね〜唐代の家系図。 顧氏や鍾氏はまあいいとして、なぜに薛蘭…あえて子孫を名乗りたいとは思わない人物ですが…。 ところで! 崔州平と崔鈞って同一人物なんですか!? ちょっと年代がズレてるような…(いずれも崔烈の息子ではありますが…)
152: 2002/10/30(水) 23:23 黒竜 2001年11月11日日曜日 01時52分 崔州平、原文が 「烈、後漢太尉、城門校尉、生鈞、字州平、西河太守」となってます。 兄貴の名前が崔均なんであっさり信じたんですが… 疑う余地はありそうですね。 それと薛蘭ですが意外にも名家のようです。 薛蘭の父や祖父も国相や太守を務ています。てっきり呂布配下の并州人かと思ってましたが… 薛永は蜀郡太守、その子の薛斉は蜀・巴の太守を務めたらしいのですが蜀書には出てこないですね………(??) ちなみに一番あやしいのは関羽です。 関竜逢(商)…→関羽→関興(三国)…→関播(唐) アバウトすぎ
153: 2002/10/30(水) 23:24 左平(仮名) 2001年11月11日日曜日 10時57分 唐書についての知識は皆無なので入り様がないのですが、、関龍逢の名が出てきたので、ちょっと説明を。 関龍逢とは、商ではなく、夏王朝末期の人です。桀王の暴虐をたびたび諌めましたが、ついに殺されたという名臣です。ちなみに、彼は関氏ではなく、関龍氏だった様です。宮城谷昌光氏の『天空の舟』に、「、、夏の社の神体は、「交龍」である。、、そのおさめるところは河水(黄河)である。、、ここの最高責任者は関龍家であった。、、」という記述があります。 関羽以前で名の知れている関氏といいますと、、 ・春秋時代初期の鄭の大夫、関其思(戦略的には正しい事を発言したのだが、武公の意図を読み切れなかった為に処刑される。「韓非子」(説難篇)に登場。鄭というと、河南省のあたりでしたから、河西の人・関羽とのつながりは?です)。 ・老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。確か、関喜とかいった様です。もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。
154: 2002/10/30(水) 23:24 中根東竜 2001年11月11日日曜日 17時58分 どうも、ご無沙汰の中根です。 >『新唐書』宰相世系表 なんか懐かしいなぁ。いや、4年ほど前「『三国志』の注釈を 全部読破してやろう」と思って注釈だけまとまった『二十四史補編』 なる中国書を読んでいたことがあったのですが、そこの賈クの 箇所の注に『新唐書』宰相世系表が引用されていたのですよ。 んで、賈クには賈疋なる孫がいた、そうで・・ >玉川さん >これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、 偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。 価値はあったでしょうね。唐の時代はまだ貴族社会の色が濃い(庶民から科挙を通って朝廷に仕官した官僚と、貴族が派閥争いをやっていた)んで、庶民上がりや元来中国人ではない人でも名門の末を主張した人物は結構居るのではないでしょうか。貴族社会は能力より血筋を 重んじますからね。 それで『三国志』系マイナー武将を子孫と称した人物が多かったのでは?記録がない人物なら文句はいわれませんから。 もしつっこまれても「家に伝わる記録ではこーなのじゃっ!」 と言い返せるので。 まあ、怪しいといえば怪しいのですが。怪しい具体例を挙げると、隋の皇帝の楊家は「楊震の末裔」を称していたのですが、現在の学界では「騎馬民族・鮮卑族の末裔」とするのが定説化しているようです。 >関龍逢 左平(仮名)さんのおっしゃる通り、夏王朝末の人ですね。 結構諸子百家の世界では有名人で、「暴君を諫めて殺された賢臣」 として『韓非子』などに登場します。なお、『韓非子』の有力な 注『韓非子翼毳』(かんぴしよくぜい)に依れば、大本の 出典は『韓詩外伝』だそうです。 なお、宮城谷昌光氏が関龍家とする根拠はよくわかりません。 王雲五氏の『辞源』では「関・龍逢」として区切っています。 関姓という説もあるのでしょうか?まあ、『韓詩外伝』を 見ないとわかりませんが・・ >老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。 これは関尹喜(かんいんき)のことですね。ただ、この人の名は 「尹喜」で「関所役人の尹喜」が「関尹喜」となっているみたいですよ。関姓ではないようです。 >もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。 そういう説を中国の故・郭沫若氏は主張していたようですね。「関尹喜」は「関尹」(関所役人)という普通名詞であり、固有名詞ではないと。 まあどっちにせよこれも調べないとなんともいえませんが。
155: 2002/10/30(水) 23:24 黒竜 2001年11月11日日曜日 23時19分 左平さん、中根さん、私の雑な話題に注釈を入れてくださってありがとうございます。 何しろ新唐書のあまりの書きっぷりに興奮冷めやらぬもので… 賈クの親兄弟まで名を連ねてますから(父はキョウ、兄は綵)。 関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました… 殺されたということは湯が子孫を封じたりしたのかな?? 姓氏は復姓が単姓に改まることもあるようなので「関姓」全体の始祖という位置づけみたいです。 他の項でも最初は伝説的人物からはじまってます(炎帝や黄帝が…)
156: 2002/10/30(水) 23:24 ぐっこ 2001年11月12日月曜日 00時38分 >崔氏 いまのところ手元の資料は三国志と辞書だけの状態なので、詳しくは判らないんですが…。崔鈞は、「銅臭ェんだよオヤジは」って言った人ですよね(西河太守として反董卓連合にも参戦)。で、崔州平は孔明の友人。崔均はその州平の兄。 …やっぱり三(以上?)兄弟っぽい状況ではありますが…。 あと、薛氏! ひょっとして本籍、徐州とか豫州のへんですか!? もしそうだったら、孟嘗君と関係あるひとかも…。う〜ん! こりゃあ意外な事実!? 私も李封とかといっしょで、呂布の子飼いかと思ってました(こうなると、李封も案外、エン州李家の一族だったり…じゃあ李乾とは同族?)。 三国志って、どこまで奥が深いんだ〜!! >関氏 関羽以前の伝説になりますと、そりゃあうさんくさい話がいっぱい(;^_^A 唐代の人もやりたい放題だったでしょうね〜(たしか馮氏説もあったような…)。 それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。 三国志の小説を書かれてる作家(特に宮城谷先生)、どの程度まで「後世の」三国志史料を引用するか見物ではありますよね〜!(;^_^A 賈クの兄弟まで名前が「伝わって」るのか…。
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