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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
24: 2002/10/27(日) 22:09 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:42:46) >黒竜様 やっぱり陳氏の末裔は山ほどいらっしゃいますか(;^_^A 確か現在の魯国は、孔子の子孫を名乗る方が五人に一人いらっしゃるとか。しかもみんなが持っている家系図がバラバラ(;^_^A でもあまり気にせずに主張し続けるあたり、中国人のスケールの巨きさが伺えます。 ところで霊帝の曾孫…ということは、献帝の孫、ということですか。いま手元に献帝紀が無いので調べよう無いんですが、彼の子孫はその後どうなってるんでしょう? 「阿知王」って、あからさまに日本名っぽいんですけど(;^_^A >おばら様 やや、史記の方面の参戦かたじけないです〜! こんどは始皇帝の末裔!? ――あ、渡来の秦(はた)氏って、始皇帝の「秦」を名乗っていたわけなんですか!? いま初めて気づきましたっ!! そして今は雅楽大家で(;^_^A いや、始皇帝直系かどうかはともかく、秦の遺民の末裔である可能性は結構高いですね!ふええ。 で、さらに秦氏は長曽我部氏の祖でもあるわけで。こりゃあ、意外な事実ばかり! 奥深すぎです! >ふみ様 おお、盧[言甚]の子孫も全滅していなかったのですね!? じゃあ盧植の血も途絶えず!意外に北方で幅きかしてたんですね、盧氏…。通史でざっと目を通すだけでも、かなり意外な人間関係というか人脈のあり方が見えてきて、三国志がよりいっそう面白くなります!!
25: 2002/10/27(日) 22:09 玉川雄一[関東] > (2001/07/29(Sun) 01:34:35) 献帝には三人のお子さんがいらしゃったようです。 劉熙、劉懿、劉敦。彼らがそれからどうなったかは存じ上げませんが… 晋書には、285年に献帝嫡孫の山陽公劉康が死去したと記されています。 また、289年には同じく山陽公の劉瑾の死が記録されています。 ちなみに、4世紀のどこかで陳留王(曹奐の裔でしょうか)の代替わりをみた記憶もあります。 何やら細々と続いていたようですね。
26: 2002/10/27(日) 22:10 黒竜[関東] > (2001/07/29(Sun) 13:58:10) 献帝の子孫は、康→瑾→秋と続き、秋が永嘉の乱で胡(民族名不詳) に殺されて国も絶えたみたいです。
27: 2002/10/27(日) 22:10 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 21:19:09) なるほど、山陽公国というのは意外に長く続いたのですね。永嘉の乱、ということは呉王朝が滅亡してからさらに30年は保っていたわけで…。 それにしても、献帝の子孫で行方の明らかなのは嫡流だけ。ということは次男・三男の血統はまだ絶えずに丹波家を流れ続けているのか〜ッ!? 個人的には、是非そうあって欲しい(;^_^A それに曹家の裔が地方の封王として残り続けていた事も驚きです〜! まだ縁故血類鏖殺、などという血生臭い風ではなかったのですね…。せいぜい三族どまりなんでしょうか?
28: 2002/10/27(日) 22:10 松竹梅[関東] > (2001/07/29(Sun) 23:28:42) 三国時代って平和ですよね…まだ東晋十六国南北朝時代(縮めて言えば六朝時代だってことに今気付いた)は滅亡した王朝の一族はほぼ根絶やしですからね。 こちらも田中芳樹氏の小説より引用「新しい天子さま(梁の武帝)はなんと寛大な御方じゃ。前王朝の皇族を五人しか処刑なさらなかったぞ」(『長江落日賦』)
29: 2002/10/27(日) 22:11 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/31(Tue) 00:23:35) 五人しか…(;^_^A そういえば三国時代に、敵の皇族を次々殺した、なんて話は聞かないですね〜。例外と言えば劉禅の息子がドサマギに殺された(要領の悪い…)くらいですか。やっぱり平和というか、ゆったりしてますね〜。あまり将来の禍根になりそうなのが居なかったから、という事もあるでしょうが…。
30: 2002/10/27(日) 22:15 松竹梅[関東] > (2001/07/30(Mon) 00:15:16) 先祖キャラ、ちょっと調べてみました。 潁川荀氏…荀況(いわゆる荀子。荀揩ヘ十六世の子孫) 趙雲…趙佗?(前漢代の南越王。ある学者さんの推定ですが) 金旋…金日テイ(匈奴休屠王の太子から帰化して活躍した名臣) 馬超…馬援(後漢初期の名将、伏波将軍) こんなもんでしょうか。まだまだ探せばいそうですが。
31: 2002/10/27(日) 22:16 おばら[関東] > (2001/07/30(Mon) 02:23:13) ほののの!趙佗が話題にのぼってますね! うちのサイトで趙佗伝をやったのですが、レスがまったくなくて・・・。トホホでした。趙佗、個人的にはすきなんですが。マイナーすぎましたか・・・。 趙佗の出身地は真定です。そして趙雲の出身地も真定です。私も史記や漢書を読んでいて、「これは怪しいな〜」と思ったのですが、やはり学者さんがそういう仮説を立てていましたか!うむむ。 前漢の高祖劉邦は趙佗を討伐せず、文帝もさらに趙佗を尊重しました。文帝は、真定に残っていた趙佗の兄弟・親族を高官に任命しています。その後、五代目で南越国は滅ぼされ、直系の子孫が絶えました。しかし、一族の趙光が反乱に加わらず、逆に南越王を諌めていた事実が帝に知れ、趙光は随桃侯に任命されます。 趙雲が、趙佗の一族である可能性は充分あると思うんですが、どうでしょ? ちなみに宣伝になっちゃいますが、 http://www.din.or.jp/~t-obara/chouta-top.htm で趙佗の一生が見れます。私の駄文ですが^^; ぐっこさん、宣伝行為におゆるしを m(_ _)m
32: 2002/10/27(日) 22:16 左平(仮名)[北海道] > (2001/07/30(Mon) 19:49:49) 趙雲の先祖(かも知れない?)の趙佗は常山真定の人、ですか。かつての趙国の辺りらしいですから、ひょっとしたらひょっとして、、。春秋の覇者、晋文公・重耳に仕えた名臣・趙衰の子孫なんて事もいえるかも知れないですね(ついでに言うと、そのまたご先祖は殷紂王に仕えた快足の持ち主・飛廉という事にもなります)。
33: 2002/10/27(日) 22:16 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/31(Tue) 00:24:03) >松竹梅様 またしても情報ありがとうございます〜! なるほど、潁川荀氏は伊達に清流筆頭を張ってるわけでは無いんですね! あの荀子の子孫でしたか〜。荀子といえば性悪説。荀揩ノせよ荀攸にせよ、おそらくは家学として脈々とその説を受け継いでいたでしょう〜。 人の本性は悪である故に、上を犯さず礼を尊ばねばならない……なんとなく荀揩フ宰相としての姿勢がわかってくるような気がします。 他にも馬超、趙雲……金旋!? 金旋ってそんなエライ人の子孫だったのですか!?――って、そういえば彼の息子が「先祖様が云々」と言って曹操にクーデター起こしたのでした…。 >おばら様 趙雲の先祖様判明!? 確かに常山真定という限定された地域で、趙氏なのですから、これは同族である可能性は高いですね〜!! 南越王とはまたトロピカルな…。あ、宣伝全然かまいませんよーっ! あとで拝見させて頂きます〜!趙雲の遠いご先祖(かもしれない)の一人の伝記、と思うだけでだいぶ見る目が代るような…。 >左平様 どうも〜! あ、晋の重耳の幕僚・趙衰ですか〜!彼の子孫というと、刺客・豫譲に付け回されたが為にやたら有名になった趙襄子が! 彼らも趙雲と縁があるかもしれないと思うと、なんとなく色んな興味がわいてきます(;^_^A で、さらにその先の悪来!? もはや神話の世界に突入の趙雲家…。でも本当だったらいいですね〜
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