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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
63:2002/10/27(日) 22:45
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/21(Tue) 21:45:09)
ナナシサソ様(;^_^A 、はじめまして〜! いえ、情報大歓迎です〜!
なるほどお、最初は読み飛ばしていましたが、あらためて正史を読み直すと、先祖の記述がびっしり書いてある武将もいるんですね〜!
特に呂凱には驚きました!…いえ、いま「奇貨おくべし」を読んでいたところなので…。不韋県とは、そのまんま呂不韋からとった地名なんですね。
省7
64:2002/10/27(日) 22:46
玉川雄一[関東] > (2001/08/21(Tue) 22:10:25)
子孫ネタです。閻圃の子孫が、唐代の画家、閻立本っちゅー人で、『歴代帝王図巻』を描いたそうです。
以上、『三國志IV事典』より。
65:2002/10/27(日) 22:46
ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:12:45)
はじめまして、ぐっこ様。関係ないですが自分、某所のあずまんが三国志にもよく投稿してます(^^;
あと陶淵明の母親の祖父は東晋の著名人孟嘉ですが、この孟嘉の祖父が実は呉の孟宗(筍の話の彼です)。以外な所で以外なところにつながってますよね、確かに。
66:2002/10/27(日) 22:46
ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:18:04)
ありゃ、孫じゃなくて曾孫だった>孟嘉
すいません何度も(^^;
67:2002/10/27(日) 22:46
左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 19:26:28)
だいぶ以前になりますが、松竹梅さんから、馬超のご先祖として、伏波将軍・馬援の名があがっていました。じつは、この馬援には、ちょっと名の知れた先祖(といっても直系のではなく、曽祖父の兄という事ですが)がいます。その人の名は馬何羅といい、なんと、漢の武帝の暗殺を企み、処刑された人物です。陳舜臣氏の『小説十八史略』に出ていました。なお、彼は『漢書』には莽何羅と書かれており、塚本ヨ史氏の『霍光』にもその名で登場しています。
ひょっとしたら、、という程度の話ですが、こんな人はいかがでしょうか。、、孫堅が戦死した後、その遺体を請い受けた桓階という人がいます。この人は、長沙郡臨湘の出身との事ですが、桓氏というと、(桓階の子孫という証拠は何もないのですが)東晋王朝の実力者・桓温がいます。北伐を敢行し、王朝簒奪を目論んでいたといいますから、相当なものです。彼はよく、「男子たる者、百世に芳しきを流す事あたわざれば、まさに臭きを万年に遺すべきである!」と言っていたとか、、。結構、さまになる物語が出来そうです。
68:2002/10/27(日) 22:47
黒竜[関東] > (2001/08/22(Wed) 21:17:19)
馬何羅が漢書などで莽何羅となっているのは明帝の皇后である
馬氏(馬援の娘)が修史官にお願いして変えてもらったらしいです。
そして、馬何羅を投げ飛ばして暗殺を防いだのが金旋、金イの先祖の金日テイですよね。
省9
69:2002/10/27(日) 22:47
ナナシサソ[東海] > (2001/08/22(Wed) 21:53:07)
桓栄は光武帝の時代の人みたいですね。後漢書に伝がありました。
ちらっと見ただけなのですが、どうやら高名な学者さんみたいですね・・・
70:2002/10/27(日) 22:47
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:09:21)
>玉川雄一様
おお〜! まだ尽きることなくご先祖・子孫ネタが!閻圃、というとあの張魯の軍師の閻圃!おお、閻立本ならよく耳にしますが、そのご先祖様ですか〜!意外な才能を後世に残しましたね…。
省13
71:2002/10/27(日) 22:47
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:15:09)
↑うわあ、またオフラインの間に書き込みが〜!
黒竜様、追加情報ありがとうございます〜! なるほど、馬援の娘が、先祖の罪を隠そうと…いい話なのか悪い話なのか…。
ところで、11号ご愁傷様です〜。でも神保町いつかはいきたいです…。
省9
72:2002/10/27(日) 22:48
左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 23:25:38)
趙雲のご先祖についてですが、、いくつか追記します。@趙雲の遠い遠いご先祖様かも知れない飛廉のご先祖についても宮城谷昌光氏の『王家の風日』に書かれていました。商王朝の初期に中衍という人物がおり、車の改善を王より命ぜられ見事に成し遂げた、とか、さらに遡ると、費昌という人物は、商王朝の初代・湯王の御者となり、鳴條の戦いにおいて夏の桀王と戦ったとか。費昌という人は、伯(王の名代として地方の諸侯を統括する権能を持つ)の位にあったといいますから、夏王朝の時代からの血筋という事になります。、、、本当に神話の時代にまで突入しちゃいましたね、これは。A同じく宮城谷昌光氏の『重耳』から。飛廉→季勝……趙衰という流れになるのですが、この……の部分にも、有名人がいました。造父(ぞうほ)といい、周の穆王に仕え、名御者として知られる人です。その功績によって邑を与えられてから「趙」氏を名乗る様になった、との事です。 さらに。『三国志』には何人か士氏・范氏が出てきますが、ひょっとしたらひょっとして、春秋時代一の名将・士会(范武子)の子孫なんて事は、、?中でも、士燮(字は威彦。交州に半独立勢力を築く)などは、まさしく士会の子と同姓同名。 またさらに。公孫サンや公孫度など、幽州方面に何人か公孫氏という人々がいますが、彼等もひょっとしたらひょっとします。というのは、春秋時代の君主の子孫は多くが公孫氏を名乗っているからです(例えば、鄭の名宰相・子産は穆公の孫である事から公孫僑ともいいます。商鞅は衛国の公族であり、公孫鞅ともいいます)。このあたりで公を名乗る程の勢力というと、、戦国七雄の一つ、燕が思い浮かびます。そして、その燕国の創始者の一族には、太公望・周公旦と並ぶ周王朝建国の元勲・召公セキの名が、、。もっとも、漢の時代には、投降した異民族が権威付けの為に公孫氏を名乗る事が多かったそう(塚本青史氏の『霍去病』より)ですから、匈奴の子孫、という可能性も大きいです。公孫サンが騎兵戦に長けていたのも、匈奴の血の影響あり、でしょうか?
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