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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
125: 2002/10/30(水) 00:23 黒竜 2001年10月06日土曜日 09時25分 同じく、何故か後漢書を持っている黒竜です。 袁術伝の注に「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」 となってました。 さらに遡ると帝舜まで行き着くようです。 ちなみに袁安伝では袁良以前のことには触れられてません。
126: 2002/10/30(水) 00:23 左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時14分 袁氏の先祖について、黒竜さんが「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」と『後漢書』袁術伝の注にある、とおっしゃっているので、もしや、と思い宮城谷氏の『史記の風景』をチェックすると、、ありました!「春秋時代の晩期に、陳という国に轅頗(えんぱ:エンはながえ、パは戦国時代の名将・廉頗のパと同じ字)という大夫がいた。かれは司徒の位にあった。」との事です。ちなみに、この人は、紀元前484年に亡命しており、その6年後に陳は楚によって滅ぼされています。轅氏は陳の公室を累代ささえてきた大柱石の名家という事ですから、公室に連なる→(陳の公室は帝舜に連なるといいますから)帝舜の血脈という事になりそうです。
127: 2002/10/30(水) 00:24 ぐっこ 2001年10月07日日曜日 23時47分 おおッ!袁家の血筋! ええと、私も皆様とおなじソースしか用意できないのですが(後漢書・後漢紀(明徳のアレ)・三国志・後漢国家の支配と儒教)、いちおう推測しました〜。 まずMOS様の仰る袁生なる人物、たしか劉邦本人を囮にして味方を救うよう進言した人物。 この袁生は、どうも袁紹・袁術らの「汝南袁氏」ではなく、袁滂・袁渙らの「陳袁家(曹氏に仕え、晋代に栄達した)」のご先祖のようです。 ただ、この陳袁家の家系図を見ていますと、袁生の8代後に「梁の相」袁良の名が! この袁良が、袁紹の祖父の祖父の祖父である「太子舎人」袁良と同一人物であるかどうかが不明ですが…(かなり年代がズレてます)。 ここで話は飛びますが、黒竜様、左平(仮名)様の情報のとおり、袁術の先祖は陳国の大夫である轅頗(濤塗)であると見て間違いありません! つまり、汝南袁家も元々は陳袁家と同門であったとするべきでしょうか。 あくまでも仮定の話として、陳袁家の袁良と汝南袁家の袁良が同一人物であったとして、また系譜をつくってみました(;^_^A ※どうせズレるでしょうから、メモ帳とかにコピペしてください。正確になります。 帝・舜 : : 胡公満(初代陳主) : : 轅濤塗 : : 袁生 : : 良 ┣━━━━┓? 璋 ■ ┃ ┃ 滂 安 ┃ ┃ 渙☆ 京 : ┃ : 湯 : ┣━━┳━━┓ : 成 隗 逢 : ┃ ┣━━┓ : 紹☆ 術☆ 基 : : 宏(後漢紀の著者) うーん。やっぱり袁良=袁良は無理があるかも…。そもそも汝南の袁良は、前漢末の人物ですし…。
128: 2002/10/30(水) 00:24 黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分 三国志X事典の一節に 「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって 汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」 とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか? だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…
129: 2002/10/30(水) 00:24 ぐっこ 2001年10月11日木曜日 23時00分 がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな〜。 うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね〜。 しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。
130: 2002/10/30(水) 00:45 おばら 左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑 正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。 そこで來家の調査開始!(←暇人 遡れる限界は、來漢。 前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。 次に、來漢の孫の孫、來仲。 前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。 そして、來仲の子、來歙と來由。 來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。 弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。 來歙の子は來褒。 來褒の子は來稜。 明帝の娘を娶るも、早世。 來稜の子は來歴と來[示止]と來超。 來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。 來[示止]は歩兵校尉に、 來超は黄門侍郎になる。 來歴の子は來定。 彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。 來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。 來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。 弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。 ココまでが後漢書の内容です。 以下が三国志の記述です。 來艷の子は來敏。 後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。 來敏の子は來忠。 來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。 以上が調査結果です。 その後の來家、どうなったのでしょうか? 『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか? 情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;
131: 2002/10/30(水) 00:45 左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分 來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。
132: 2002/10/30(水) 00:46 ぐっこ 2001年11月04日日曜日 21時49分 来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。 ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね〜。 で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。 え!? 姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。 とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。 でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。 ……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。 どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね〜。 これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう〜。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。
133: 2002/10/30(水) 00:46 ぐっこ 2001年11月04日日曜日 21時52分 またオフライン(;^_^A ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。 たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ〜(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。 あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?
134: 2002/10/30(水) 00:47 玉川雄一 2001年11月04日日曜日 22時32分 速報。 とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。 文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが… 「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。 あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…
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