下
★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
186: 2002/11/01(金) 21:51 香香 2001年12月25日火曜日 13時16分 うお!陸家ネタですね! それにしても、NOBさまの系図すごすぎます(汗)。黄帝からスタートしているし(爆)。私が知っているのは三国志の範疇においてだけですので・・・。 お忙しいのに、有難うございます! って、私が言ってどうする(爆)。 それでは、玉川様、よろしく(~_~;)! 晋書の陸機・陸雲伝をナナメ読みした時、この二人の列伝はヤケに小説めいているというか、よく書かれ過ぎているな〜なんて思ったもんですが(笑)。他の人のも読まないとなぁ。メジャーな人物意外全然読んでませんから(滝汗)。 いや、それ以前に読めません(爆)。「解体晋書」がたよりです(~_~;)
187: 2002/11/01(金) 21:52 おばら 2001年12月25日火曜日 16時09分 うを!さすがNOBさま・・・。 っと、史記陸賈伝索隠の引用ということで、触発されて私も中華書局『史記』レキ生陸賈傳第三十七を見てみました。 『陳留風俗傳』はこう伝える。「陸氏、春秋の時の陸渾國の後裔なり。晋侯が陸渾國を討ったために、陸渾子は楚に逃げた。陸賈はその後裔なり。」と。 また『陸氏傳』はこう伝える。「斉の宣王の子、達は陸で食菜す。達は發を生み、發は皋を生む。皋は楚に住みつき、陸賈はその孫なり。」と。 うーわ〜、すんごい適当な訳だ(T▽T) >NOBさま 卒研どうっすか?こっちは・・・ぐへっ。
188: 2002/11/01(金) 21:52 玉川雄一 2001年12月25日火曜日 19時41分 あらら、また回ってきてしまった(^_^;) えー、では陸康の方は… 陸績の子の会稽南部都尉・陸宏と長水校尉・陸叡、張白に嫁いだ娘の鬱生ですか。これで打ち止め(?)のようです。 陸遜の方は…皆様ご存じでしょうが(笑) 陸延と陸抗。陸抗の子は晏、景、玄、機、雲、耽。 下の三人は揃って303年に死亡。一網打尽ですね。 ちなみに機の子の蔚、夏も同じ年に亡くなっています。 また、陸遜の弟の陸瑁とその子までは呉書に載っていますね。 陸瑁の子は滂、喜、英、偉、顔。喜の子が育。 で、陸英の子の陸曄(士光、261−334)が晋書に立伝されています。 「陸曄字士光、呉郡呉人也。伯父喜、呉吏部尚書。父英、高平相、員外散騎常侍。曄少有雅望、従兄機毎稱之曰、『我家世不乏公矣。』居喪、以孝聞。同郡顧栄與郷人書曰、『士光気息裁屬、慮其性命、言之傷心矣。』」 …で始まるのですが、コレって褒められてますか? 当初は文官ちっくに昇進したようです。散騎常侍、侍中、尚書、州大中正、光禄勲、太常、尚書左僕射、太子少傅、左光禄大夫… また軍事にも携わったようで、蘇峻の乱を平定して衛将軍になったり開府儀同三司にしてもらったり爵位を勧められたり。 「峻平、加衛将軍、給千兵百騎、以勲進爵為公、封次子暇(の編が古の字)新康子。」ってありますが… 密かに次男が陸暇(の編が古の字)だというのでしょうか。今発見♪ で、後に郷里に帰り、74歳で亡くなったとか。追贈して侍中、車騎大将軍。おくりなは穆。子の[言甚]は散騎常侍になりました。 …陸曄はこないでいかがでしょう? あと、弟の陸玩の伝もくっついていたりしますが(^_^;)
189: 2002/11/01(金) 21:52 ぐっこ 2001年12月25日火曜日 21時34分 うわわわ〜〜! たった一晩で…! ええと、NOBさまの黄帝〜桓公〜陸[門+広]からスタートして、おばら様の〜陸康〜陸績につづき、玉川様の陸瑁〜陸曄〜陸暇…と。 ……うわ〜っ(;^_^A こりゃあ、系譜にし甲斐がある〜。 なるほどお、「陸氏傳」だと斉の宣王の子・田達が、陸氏の祖だと…。ええと、宣王って孟嘗君の父・靖郭君のお兄さんですよねえ。だから、田(陸)達は孟嘗君にとって従兄。 しかし「陳留風俗傳」だとかすりもしない…。個人的には陸氏傳のほうが嬉しいですけど、たぶんこっちはウソのような気が(;^_^A でも陸氏傳どおりだと、やっぱり陸遜の血は黄帝まで遡るわけで…。斉の田氏を引いていたとは。 で、アフター陸遜(;^_^A 陸績の一門は案外早く打ち止め…。陸遜一族も曾孫の代でほぼ壊滅…。 陸瑁の一族がいちばん長引いたんですね〜。陸暇…って、何した方なんでしょう…?
190: 2002/11/01(金) 21:53 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時05分 一度ならず二度までも、、書き込みが反映されない〜!! …というわけで、しつこいですが、もう一度。 『陳留風俗傳』の記述を見て、ひょっとしたら、と思い、チェックしてみました。すると、、 『沙中の回廊』(下巻)に、楚の荘王が、洛水上流域に蟠居する陸渾の戎を討った、という記述がありました。 仮に、陸渾國=陸渾の戎と考えると、陸氏の故地は、華山の辺り(黄河がL字形に屈曲する辺り)という事になります。
191: 2002/11/01(金) 21:53 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時11分 陸渾國の姓が何であるのかまではどう調べればいいのか分かりませんが、斉の王室の系譜を拝借したのだとすると、あるいは陳と同じくキ(女に爲)姓だったのかも知れません。
192: 2002/11/01(金) 21:53 おばら 2001年12月26日水曜日 00時22分 はいは〜い(^-^;; 早速、陸家系図を作りましたー。 【玉屋】の玉川雄一さま、【逸聞三國志】のNOBさま、そしてぐっこさま。 ほんとに情報ありがとうございました。m(_ _)m うーん、この充実感は何?? http://www.our-towns.net/~kanso/riku-ke.htm にUPしましたんで、よろしかったら見てやってください。 また、ぐっこさまにはめいるにGIFを添付して送りました〜。怪しくないんで開けちゃってくださいな。 玉川さま、これからそちらにご挨拶に参りますです。
193: 2002/11/01(金) 21:55 NOB 2001年12月26日水曜日 00時53分 >おばらさま 作業早いですね(^-^; 力作、お疲れさまでした。手元の資料で系図中の「○」を少し補足できそうですので、書かせていただきます。 1.陸賈の父ですが、陸ヨウ(巛邑)だそうです。 2.陸続の父は陸桓(字・叔文)だそうです。桓には卬(ギョウ)・温という兄がいたらしいです。 ともに出典は『新唐書宰相世系表』です。 本来ならおばらさんに直接お知らせするべきでしたが、話題の流れ的にこちらにまとめて書いておく方が便利だと思ったのでぐっこさんのところに書かせていただきました。m(_ _)m #卒論、焦ってます(笑) >玉川さま おぉ、晋書に陸曄がいたのですか!知りませんでした…(オイ〜!) てっきり前漢の陸曄かと(爆) なるほど、勉強になります。 <陳留風俗伝 この件は、私が引いている論文でも触れられていました。索隠で先に『陳留風俗伝』の記述が引かれ『陸氏譜』のような説も他にある、といった感じで、史記索隠の著者である司馬貞も『陳留風俗伝』のほうを信じていたのだろう、と。しかし論文の著者である松本氏、「陸賈の「詩」「書」に対する豊かな教養を思うと、やはり『陳留風俗伝』には従えない」だそうです(爆) そんなもんなのでしょうかねぇ…? ちなみに陸賈について、『元和姓纂』は「呉の丞相陸遜は、陸賈の裔孫である」と間違って書いているそうな…ひょっとして、家系をよく見せようと思ったゆえの改竄があったのでしょうか?(^-^;
194: 2002/11/01(金) 21:57 おばら 2001年12月26日水曜日 01時35分 むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場! 大活躍ですな(^-^;; >左平(仮名)さま。 『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。 『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。 >NOBさま 追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。 >ぐっこさま 『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う〜む、色んな情報がでてくるなぁ・・。
195: 2002/11/01(金) 21:57 左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分 陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。 ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。 蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。 あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。
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