下
★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
273:★ぐっこ 2003/12/24(水) 01:54 激しく同意! 私も彼らの後の世代が気になります…。はっきりと分かってる呉漢や 昶Zらの子孫の他に、どういう人がいたのでしょう? 仰るとおり後漢王朝の性質上、宿将連中がけっこう子孫繁栄していて、 外戚系だとかなり後まで羽振りを利かしてるみたいですし。 後漢書の彼らの伝だと、末期までサーチできる人物ってそんなにいないのが 残念。せいぜい孫の代くらいまで封地引き継いだ人間の名前列挙して終わり。 彼らの子孫が、三国志前後でどういう評価を受けていたのか知りたいですねえ… >皇族 霊帝は、特に絶対皇帝になれっこなさそうな地方の亭侯クラスの皇族をひっぱって きたんでしたっけ…? それで親族縁者が乏しかったとか。
274:むじん 2003/12/24(水) 03:15 劉備の養子劉封が羅侯寇氏の出自ってのがどうもなぁ。 むしろ鄧氏じゃないかと…。どう思われます? 三国志集解でもスルーなんですが…もし二十八将の子孫だったら…おいしいね。
275:★ぐっこ 2003/12/25(木) 01:01 >>274 なんだって――――っ!? どれどれ…って調べようと思ったら、なんで昶Zの子孫ってこんなに 詳しくゾロゾロ列挙されてるんだ(^_^;) ちとじっくり調べられないので 先に質問してしまいますが、誰か子孫が羅侯に封じられてるんでしょうか? 羅っていったら、長沙のあたりですよねえ… そういえば昶Zも新野の人。搦ナは新野にほど近い義陽だからわかりやすいが… もし劉封=摯浮セとすれば、かなりハァハァなんですが。
276:むじん 2003/12/25(木) 03:04 いやー、それがよくわかんないんですよね。 鄧禹の孫娘が和熹皇后なんですが、彼女はかなりのお兄ちゃん子だったようで、 鄧隲は史上初の儀同三司になってたりします。兄妹で安帝を擁立しました。 鄧隲は謙虚な人柄で、何度も宮中を去って屋敷に帰りたいと訴えましたが、 太后は一年余りも渋ったのち、ようやく許可します。 鄧隲は弟三人とともに万戸侯に封ぜられますが、兄弟そろって堅く辞退、 とうとう勅使に見つからないよう逃げまどいながら宮中に参内して直訴します。 太后は許可せず、その遣り取りが5〜6回繰り返されてやっと認められたのでした。 鄧隲は倹約を心がけ、苦役を免除してやり、数多くの名士を推挙しました。 母の喪が明けると、また詔勅によって前職に戻れと命じられましたが、これも叩頭して辞退。 太后が逝去し、安帝は長じるとともに暗愚な君主へ…。 鄧氏に怨みを持つ者がいて、鄧隲の弟が平原王擁立を企てたと讒訴、 安帝の怒りを買った鄧氏はみな罷免され、ある者は自殺し、 鄧隲は羅侯へと転封され、そこで絶食して死にました。 その後の羅侯がどうなったのか、後漢書には記されていないようです。 劉封の祖先が鄧隲であるという確かな証拠はないんですが、 それ以上に、寇氏と羅国のあいだに接点を見出せないんです。見落としなのかな。
277:★ぐっこ 2003/12/26(金) 01:04 うい、ありがとうございます、むじんさま! 中央研究院の方で“羅侯”検索かけると、なるほど、寇恂の方は かすりもせず、晁ォや竇憲のほうでヒットしました… うーん、劉封自身の伝には長沙劉氏との繋がりも記されていたので、 あのあたりには外戚から派生した一族が勢力を張っていたのかな…? 確かに調べれば調べるほど面白い! 雲台二十八将の誰の子孫にあたる のか…。(←とも限らないのか) つうか、晁ォってひとも、よい外戚の鑑みたいな伝ですねえ…。初の儀同三司!? 搗セ后もかなりのやり手だったみたいだし…
278:左平(仮名) 2004/05/23(日) 23:27 僭越ながら、サルべ−ジ致します。「オ−ル讀物」の「戦国名臣列伝」に、一つネタがありましたので。 内容は、四方山の「宮城谷センセ総合スレッド(三国志以外)」に書き込みました。
279:MM2 2004/11/15(月) 23:57 図書館行って先日の論文が載ってる本(雑誌)借りて、 ついでに渡邉義浩先生の「後漢国家の支配と儒教」を借りたら腰を抜かすくらいの資料があってびびりまくってしまいました。 こりゃじっくり読むためにも一冊買わねばなと思ったのですが値段が物凄いですね。文庫化は望めないのでしょうか。 ところで今回はご教授願いに参りました。 上のほうで安定皇甫氏について書いているので、知ってる方がいましたらお願いします。 皇甫氏の血縁者を調べてたら晋書の方で出るわ出るわ。 ざっと系図を書き出したのですが、この周辺の人達の横の繋がりなどの情報がありましたらお願い致します。 棱─旗┬節┬嵩┬堅寿 │ │ └○─○─謐┬童霊 │ │ └方回 │ └○─酈 └規 ================= ○┬重─昌(養子) └商 ================= ○┬○┬典 │ └真 ├○─○─奮(真従子) └○─○─覆(真従子) ↓上の人たちとの血縁かと疑わしい人たち 安定 皇甫隆 安定功曹 皇甫澹 安定 皇甫 安定長史 皇甫序 安定 皇甫岌
280:★玉川雄一 2004/11/16(火) 01:26 横の繋がりは分からんのですが、 晋書のどこかで皇甫方回の子だか子孫というのを見かけた記憶があります。 どこだったかなあ、確か東晋の咸和年間(330年前後)辺りの誰かの伝の文中だったと思うのですが。
281:MM2 2004/11/19(金) 23:58 情報ありがとうございます。調べてみます。 こういう、(例え遠くても)血族かなーと思ってもそれを事実とできるだけの根拠がない場合って歯がゆいですよね。 段氏や羊氏など、挙げれば数え切れないほどそういう豪族がありますが、家系図作ってるときは特にそういう歯がゆさを感じることがあります。
282:★玉川雄一 2004/11/20(土) 03:13 ■皇甫方回 あー、ごめんなさい、私の勘違いだったみたいです。 晋書列伝第四十六の王[广異](オウヨク)伝の記事で、 「王[广異]が荊州刺史となった際に、前任者だった陶侃の故将や 徴士の皇甫方回などを大いに誅戮したので人望を失った(意訳)」 という個所のことだったと思います。子孫でなくて当人でしたね。 時期としては、王[广異]は荊州刺史となった際に前任者である陶侃の旧部下が 彼の就任を拒んで叛徒・杜曾と結託したため着任が遅れたようで、 着任が“杜曾の乱”の完全鎮圧後とするならば319年ということになり、 皇甫方回の殺害もその頃ということになるでしょうか。 ■系図のミッシングリンク 私も自分のサイトで系図を作っているのでよく分かります。 とりあえず本籍の県レベルまで同じならば血族であることは堅いんですけど、 系図を作ろうとするとやはり“繋げて”みたくなるんですよね。 そして文献を読んでいて困るのが、「そこに記載されていない人物の存在の可能性」ですね。 “Aの子にB、(Aの)孫にC”とあった場合でも、BとCが親子とは限らないわけで、 実はAにはBの他にDという子があり、Cはその子だったという可能性もある。 従弟などの関係でも微妙なところで、 “AとBは兄弟、Aの子にC、Cの従弟にD”とあっても、 BとDが親子とは言い切れない。 ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。 そして羊氏は泰山の羊氏? 鮮卑段部においても、段匹テイの従弟とされる段末杯(末波)は、 匹テイの父・務勿塵の弟である渉復辰の子と断定できるのか? この辺は史書をしらみつぶしにあたるしかないですね。 思わぬところでサラリと触れられていたりする場合もありますし。 系図作成に関して他にも情報を補完し合えたらいいですね。 その際はまたよろしくお願いします。 とりあえず拙作を参考までに。三国〜晋(の途中まで)です。 http://triglav.ld.infoseek.co.jp/keizu000.html
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