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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
77: 2002/10/27(日) 22:50 MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:52:11) 訂正 「鴻や高陽を名としている方」→「鴻や高陽を名としている研究家」 わかりにくい表現で失礼しました。。(^^ゞ
78: 2002/10/27(日) 22:50 ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 14:32:11) 自分の投稿した陶淵明の先祖の話で誤植が・・・ ×陶淵明の母親の祖父 ○陶淵明の母方の祖父 でした(汗
79: 2002/10/27(日) 23:23 MOS[外国] 投稿日:2001年08月23日 (木) 06時32分19秒 秦氏をちょっと調べてみたんですが・・・ http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/tai_1_26.htm ↑を見る限りだと、伊賀の服部家も秦氏の子孫のようですねぇ♪ そういえば、どっかで聞いた覚えが・・・あるような無いような(笑) ちなみに、エイ氏・趙氏は黄帝の長男玄囂の子孫だそうですよ。 玄囂は位を継げずに、また、一節には継いだけれど後に剥奪されて、 甥(黄帝の次男の子)であるセンギョクが五帝の2番目に来ています。
80: 2002/10/27(日) 23:24 黒竜[関東] > (2001/08/23(Thu) 09:25:51) 公孫氏の話なんですが、「中国姓氏考」という本に引用されている 「通史」氏族略には 「春秋の時、諸侯の孫亦以て氏と為すは、公孫氏と曰い、皆貴者の称たり」 とあって別項には、「公孫は爵位を氏としたもの」となってますから 黄帝まで遡らなくてもいいようです。 ちなみに氏(姓は除く)は不変ではなく、宋の系図を例にすると、 桓公→公子目夷(字は子魚)→公孫友→魚石 と世代ごとに変化するなかで、公子、公孫、王子、王孫などの氏が 成立したらしいです。 公孫以外はあまり見かけませんけど…
81: 2002/10/27(日) 23:25 ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 13:48:56) >服部家 服部家は自ら伊賀平氏を名乗っています(汗 平氏物語にも登場する伊賀左衛門尉家長を家祖としているようですね。「三国地誌」という書籍には「服部家が秦氏の末裔というのは誤りである」とあるそうです。
82: 2002/10/27(日) 23:25 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:22) ■桓温のご先祖は… ご先祖の諱を避けるハズですから、桓彝を挟む時点で桓階━桓温ルートは無いかもしれませんね〜。同郷で同姓、というだけではありますが、桓禺のほうはそれっぽいですね。…それにしても、これまであまり興味の無かった桓階について、急に詳しくなりました(^_^) ■ご先祖さま 商王朝! 夏王朝! さいごは黄帝!本当に神話ですね〜(;^_^A おお、費昌ですか〜! 伊尹のお話あたりに登場してるかも! さらに趙雲のご先祖を追加せねば!案外すごいぞ、子龍! また陳到に差を開けた! いま手持ちの正史全人名辞典(ちくま)を確認したところ、「三国志」に登場する士氏は10名。そのうち9名がなんと士燮の一族!(^-^; ちなみにあとひとりは、いわゆる傅士仁です。「沙中の回廊」を読んでいて「あ、士燮がいる〜♪」と思ったものですが、やはり先項の避諱の風習からして、士会と交州の士燮は別ルートかもしれません〜。
83: 2002/10/27(日) 23:25 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:38) ■公孫! これですこれ!公孫無知とか公孫なんとかとかが色んな国でゾロゾロ出てくるため、春秋歴史新聞を読んでいても頭が混乱します(;^_^A なんか凄い氏ですよね〜、公孫とか王子とかって。名字の決め方がアバウトすぎ!せめて周公旦、みたいに国名を入れてくれれば…。 でも遼東公孫氏については、公家の後裔よりも異民族タイプの方がしっくりきますね〜。豪族の間でそれと言って人望のない(というより全くない)公孫度が、短期間で北辺を踏み固めたのには、個人の武略以外に理由があるような。 でも、公孫家には燕王…そして召の血がある可能性…。あ、黄帝の姓も公孫ですか!? そういえば遼東公孫家、「雷火」で邪馬台に仇なす悪役として登場。 ■伊賀! くわ〜っ!なんというか、忍法にしても医学にしても音楽にしても、大陸渡来を看板にする流派が多い!――いえ、実際そうなんですが、やはり当時としてはハヤリだったのでしょうか!? それにしても薬師本家の丹波氏には驚きました。坂上田村麻呂の後裔たる丹波哲朗氏、劉家の北斗神拳の継承者なんですって?
84: 2002/10/27(日) 23:26 左平(仮名)[中国] > (2001/08/24(Fri) 21:42:18) ふっと気になったので、手持ちの宮城谷作品から、士会の血族をチェックしていましたら、、まぁ、子孫の幅の広いこと、広いこと。こんな具合です。 @西周の時代、岐山(長安の北西のあたり)の北方に杜という国があり、その君主を杜伯といいました。杜伯は無実の罪により宣王に殺されるのですが、その子の一人である隰叔(しゅうしゅく)は晋に亡命しました。彼こそが士氏の始祖です。また、杜伯の子は他にもいたでしょうから、杜氏を名乗り続けた者もいるはずです(詩聖・杜甫のご先祖、杜預の祖父・杜畿は京兆郡杜陵の人といいますから、杜伯の子孫という可能性あり)。 A士会は末子(字は季)ですから、当然兄がいます。士会の兄の系統(又は士会の子の一人、士魴)の系統はそのまま士氏を名乗り続けたと考えられます。 B士会はその食邑名から、随会とも范会とも呼ばれます。したがって、随氏・范氏も士会の子孫という可能性があります(なお、遠交近攻策を提唱した秦の宰相、応侯・范雎も士会の子孫を自負しています−『青雲はるかに』より)。士氏は、士会のあと、士燮−士カイ(勹の中に亡)−士鞅−士吉射と続き、趙氏との戦い(范氏・中行氏の乱)に敗れ、晋を追われます。彼等は斉の方へも行ったといいます。 C士会は、一時秦に亡命していました。趙盾・郤缺の策によって晋に呼び戻されたのですが、その時、秦に残留した族人がいます。彼等は劉氏を名乗った(!)そうです。 杜氏・士氏・随氏・范氏、そして劉氏はすべて、士会の遠い遠い一族と言えなくもありません、、。 秦氏の子孫についてですが、、たしか、羽田孜・元首相も確かその一人だったかと。首相になった当時、TVで聞いた覚えがあります。、、どうみても始皇帝とのつながりは見えないんですけどねぇ、この人の場合は。
85: 2002/10/27(日) 23:26 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/25(Sat) 00:27:19) うお!? かの士会の血縁が、こうも広範に散らばるとは!? 彼や重耳のように、流浪だの亡命だのを繰り返した結果、全土にその胤を残すパターンもあるのですね〜。そしてみんなが別々の氏を名乗るからよけいにわけがわからない! どうして中国人は姓と氏を分けるのですか〜! 羽田元総理も、秦氏ですか…。あ、ハタつながりということで…。でも、結構本当っぽいですね〜。なら羽田さんも趙雲の血縁グループに!
86: 2002/10/27(日) 23:28 左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 13:54:09) ご先祖ネタで趙雲と陳到の差が開く一方なので、陳到のご先祖ネタ(相変わらず根拠は薄弱ですが)も一つ。陳到(字は叔至)、汝南の人。、、陳氏という事から、当然、春秋時代の陳国との縁が考えられます。汝南はかつての陳の地よりだいぶ南にあるのですが、、何と!張コウは(吉川三国志では)三度死ぬ、ではありませんが、陳は三度滅んでいるのです!その一回目は、覇王・(楚の)荘王の時の事(ちなみに、二回目も三回目も楚によって滅ぼされています)。この時、南方に抑留された陳の人々もいるでしょうから、その末裔の一人が陳到という事も。なお、この陳の公室の先祖は、虞の閼父といい、周王室の陶工の長でしたが、その子は周の武王の長女を娶り、陳国を開いています。さらに、そのご先祖は、何と太古の帝王・舜! 以前の士会の一族ネタで出てきた、杜陵という所ですが、、伴野朗氏の『中国・反骨列伝』の中に、西安(かつての長安)の東南という記述がありました。杜伯と杜預とのつながりはどうなるのでしょうか?、、それはさておき、魏に蘇則という人がいたので、まさか、と思い「三国志全人名事典」(徳間書店)でチェックしましたら、扶風郡武功の人、とあります。扶風郡は長安近郊ですから、上述の杜陵で生まれ育ったらしい、典属国・蘇武(匈奴に十九年もの間抑留されながら、ついに節を曲げる事なく漢に帰還したという傑人。悲運の名将・李陵の友人ともいいます)の名が。蘇武は期間後も二十年あまり生きたといいますから、彼の子孫が一人くらいいても不思議ではありません。
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