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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
1: 2002/10/27(日) 21:56 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ! 今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が! 何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。 立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。 そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ? それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…
277:★ぐっこ 2003/12/26(金) 01:04 うい、ありがとうございます、むじんさま! 中央研究院の方で“羅侯”検索かけると、なるほど、寇恂の方は かすりもせず、晁ォや竇憲のほうでヒットしました… うーん、劉封自身の伝には長沙劉氏との繋がりも記されていたので、 あのあたりには外戚から派生した一族が勢力を張っていたのかな…? 確かに調べれば調べるほど面白い! 雲台二十八将の誰の子孫にあたる のか…。(←とも限らないのか) つうか、晁ォってひとも、よい外戚の鑑みたいな伝ですねえ…。初の儀同三司!? 搗セ后もかなりのやり手だったみたいだし…
278:左平(仮名) 2004/05/23(日) 23:27 僭越ながら、サルべ−ジ致します。「オ−ル讀物」の「戦国名臣列伝」に、一つネタがありましたので。 内容は、四方山の「宮城谷センセ総合スレッド(三国志以外)」に書き込みました。
279:MM2 2004/11/15(月) 23:57 図書館行って先日の論文が載ってる本(雑誌)借りて、 ついでに渡邉義浩先生の「後漢国家の支配と儒教」を借りたら腰を抜かすくらいの資料があってびびりまくってしまいました。 こりゃじっくり読むためにも一冊買わねばなと思ったのですが値段が物凄いですね。文庫化は望めないのでしょうか。 ところで今回はご教授願いに参りました。 上のほうで安定皇甫氏について書いているので、知ってる方がいましたらお願いします。 皇甫氏の血縁者を調べてたら晋書の方で出るわ出るわ。 ざっと系図を書き出したのですが、この周辺の人達の横の繋がりなどの情報がありましたらお願い致します。 棱─旗┬節┬嵩┬堅寿 │ │ └○─○─謐┬童霊 │ │ └方回 │ └○─酈 └規 ================= ○┬重─昌(養子) └商 ================= ○┬○┬典 │ └真 ├○─○─奮(真従子) └○─○─覆(真従子) ↓上の人たちとの血縁かと疑わしい人たち 安定 皇甫隆 安定功曹 皇甫澹 安定 皇甫 安定長史 皇甫序 安定 皇甫岌
280:★玉川雄一 2004/11/16(火) 01:26 横の繋がりは分からんのですが、 晋書のどこかで皇甫方回の子だか子孫というのを見かけた記憶があります。 どこだったかなあ、確か東晋の咸和年間(330年前後)辺りの誰かの伝の文中だったと思うのですが。
281:MM2 2004/11/19(金) 23:58 情報ありがとうございます。調べてみます。 こういう、(例え遠くても)血族かなーと思ってもそれを事実とできるだけの根拠がない場合って歯がゆいですよね。 段氏や羊氏など、挙げれば数え切れないほどそういう豪族がありますが、家系図作ってるときは特にそういう歯がゆさを感じることがあります。
282:★玉川雄一 2004/11/20(土) 03:13 ■皇甫方回 あー、ごめんなさい、私の勘違いだったみたいです。 晋書列伝第四十六の王[广異](オウヨク)伝の記事で、 「王[广異]が荊州刺史となった際に、前任者だった陶侃の故将や 徴士の皇甫方回などを大いに誅戮したので人望を失った(意訳)」 という個所のことだったと思います。子孫でなくて当人でしたね。 時期としては、王[广異]は荊州刺史となった際に前任者である陶侃の旧部下が 彼の就任を拒んで叛徒・杜曾と結託したため着任が遅れたようで、 着任が“杜曾の乱”の完全鎮圧後とするならば319年ということになり、 皇甫方回の殺害もその頃ということになるでしょうか。 ■系図のミッシングリンク 私も自分のサイトで系図を作っているのでよく分かります。 とりあえず本籍の県レベルまで同じならば血族であることは堅いんですけど、 系図を作ろうとするとやはり“繋げて”みたくなるんですよね。 そして文献を読んでいて困るのが、「そこに記載されていない人物の存在の可能性」ですね。 “Aの子にB、(Aの)孫にC”とあった場合でも、BとCが親子とは限らないわけで、 実はAにはBの他にDという子があり、Cはその子だったという可能性もある。 従弟などの関係でも微妙なところで、 “AとBは兄弟、Aの子にC、Cの従弟にD”とあっても、 BとDが親子とは言い切れない。 ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。 そして羊氏は泰山の羊氏? 鮮卑段部においても、段匹テイの従弟とされる段末杯(末波)は、 匹テイの父・務勿塵の弟である渉復辰の子と断定できるのか? この辺は史書をしらみつぶしにあたるしかないですね。 思わぬところでサラリと触れられていたりする場合もありますし。 系図作成に関して他にも情報を補完し合えたらいいですね。 その際はまたよろしくお願いします。 とりあえず拙作を参考までに。三国〜晋(の途中まで)です。 http://triglav.ld.infoseek.co.jp/keizu000.html
283:★玉川雄一 2004/11/20(土) 03:24 ところで、皇甫姓って安定以外に本籍を持つ系統ってあるのでしょうかね。 本籍不詳の皇甫氏は他にもちらほらと登場しますが…
284:★玉川雄一 2004/11/20(土) 03:55 >>282 失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。 そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。 ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、 陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、 杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。 陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、 315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。 少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、 皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。 一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、 これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、 皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。 ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に 「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。 色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。
285:MM2 2004/11/23(火) 00:37 引き続き皇甫氏についての情報ありがとうございます。 >ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。 >そして羊氏は泰山の羊氏? 紛らわしい書き方してました。すみません。前漢後期の西域都護段会宗を祖先に持つ武威郡の段氏です。 『後漢書』見てると北・西方の異民族討伐に活躍した段氏というのが何人か出てきているんです。 しかしその殆どが本籍不明なので手がかり0な状態です。 その中でも一番気になるのが段[火頃]と段[火畏]の関係で、両者とも武威郡出身という事だけ分かっています。 羊氏は泰山の羊氏です。羊続・[示古]の家系は結構出ているのですが、こちらも陳留蔡氏と姻族であったという、党錮伝に本伝のある羊陟の家系が気になります。 こういった何代にも渡って同じ姓から嫁がせているといった変わった家系には目がいきますね。
286:★玉川雄一 2004/11/23(火) 01:39 >段氏 これは早とちりをばいたしました。 武威の段氏といえば「涼州三明」のひとり、段[火頃]などを出した氏族でしたか。 この辺りはぐっこさんなどが詳しいかと。 泰山羊氏は、世説新語の註を見ていると羊秘の系統が延びてゆきそうなので、 こちらを調べてみたいと思います。 また陳留蔡氏も晋代に何人か登場しており、 史料によって系譜に微妙な食い違いがあったりして調査の必要がありそうです。
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