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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
128: 2002/10/30(水) 00:24 黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分 三国志X事典の一節に 「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって 汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」 とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか? だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…
129: 2002/10/30(水) 00:24 ぐっこ 2001年10月11日木曜日 23時00分 がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな〜。 うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね〜。 しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。
130: 2002/10/30(水) 00:45 おばら 左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑 正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。 そこで來家の調査開始!(←暇人 遡れる限界は、來漢。 前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。 次に、來漢の孫の孫、來仲。 前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。 そして、來仲の子、來歙と來由。 來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。 弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。 來歙の子は來褒。 來褒の子は來稜。 明帝の娘を娶るも、早世。 來稜の子は來歴と來[示止]と來超。 來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。 來[示止]は歩兵校尉に、 來超は黄門侍郎になる。 來歴の子は來定。 彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。 來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。 來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。 弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。 ココまでが後漢書の内容です。 以下が三国志の記述です。 來艷の子は來敏。 後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。 來敏の子は來忠。 來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。 以上が調査結果です。 その後の來家、どうなったのでしょうか? 『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか? 情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;
131: 2002/10/30(水) 00:45 左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分 來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。
132: 2002/10/30(水) 00:46 ぐっこ 2001年11月04日日曜日 21時49分 来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。 ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね〜。 で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。 え!? 姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。 とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。 でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。 ……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。 どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね〜。 これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう〜。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。
133: 2002/10/30(水) 00:46 ぐっこ 2001年11月04日日曜日 21時52分 またオフライン(;^_^A ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。 たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ〜(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。 あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?
134: 2002/10/30(水) 00:47 玉川雄一 2001年11月04日日曜日 22時32分 速報。 とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。 文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが… 「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。 あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…
135: 2002/10/30(水) 00:47 ぐっこ 2001年11月06日火曜日 01時35分 おお、さすがに早い! 玉川様、情報ありがとうございます〜! 立伝が無いということは、来氏もそれほどの権勢を、少なくとも晋代にはふるわなかったわけですね〜! 伝を見る限り、かれは姉とともに身一つで蜀に亡命してますから、かの地の一地方名士として終わったのかも…。 ただし光武帝の一門でもあった名族、中原にとどまった来氏のほうは、ひょっこりとどこかに出てきてたりして…。私も探してみます〜! 三国志U!? …意外な作品に。演義では名前のみの登場なのに…。
136: 2002/10/30(水) 00:47 松竹梅 2001年11月07日水曜日 07時22分 そういやこっちの掲示板は初めて…ご無沙汰してます。 宮城谷三国志での来歴は、楊震亡き後宮廷に残った数少ない諫臣として活躍していました。安帝にあっさり罷免されたけど。 三国志2に出てた?記憶にないなあ…三国志2って、何を色気づいたかマイナー人物が多数出ていた作品ですよね。呂覇(呂蒙の子)とか典満(典韋の子)とか。だとすると来敏が出ててもおかしくないですね。
137: 2002/10/30(水) 00:47 玉川雄一 2001年11月07日水曜日 19時19分 呂覇! 未だにIIでしか登場してないんですよねえ。ミョ〜に強いし。 典満はこの後もチョコチョコ出てますが、IIのは顔が結構怖かったでしゅ。 一番アレだったのは王双でしたけど(^-^) っつーか、IIったら尚挙とか出ていたような気もするんですが(^_^) あれ、来敏じゃなくてこっちでしたかしらん。
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