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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
194: 2002/11/01(金) 21:57 おばら 2001年12月26日水曜日 01時35分 むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場! 大活躍ですな(^-^;; >左平(仮名)さま。 『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。 『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。 >NOBさま 追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。 >ぐっこさま 『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う〜む、色んな情報がでてくるなぁ・・。
195: 2002/11/01(金) 21:57 左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分 陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。 ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。 蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。 あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。
196: 2002/11/01(金) 21:57 ぐっこ 2001年12月26日水曜日 21時53分 >おばら様 系譜、修正版ともども拝領しました〜っ! は、はやい…。しかも精巧な…。可及的速やかにアップできるよう頑張ります〜!! いま趙家の系譜と並べてみてみましたけど、なんだか凄いですねえ…。神話の時代からスタートして、有名人を経由しつつもきちんと繋がってることに畏怖を覚えます! 新唐書色んな意味で恐るべし。 >NOB様 補足説明ありがとうございました〜! それにしても、陸氏ひとつでここまでの系図が出来上がってしまうとは…。繰り返しますが、新唐書の編纂者の執念に脱帽。 陳留風俗伝…軽く見られてますかな(;^_^A どーも、コチラの方が身も蓋もない書き方なので通っぽいですけど…。ただ、記述がアバウト。史家のツッコミどころも多いんでしょうか。松本先生…。 卒論がんばってください〜(;^_^A >左平(仮名)さま ということは、まず陸渾国の戎たちは、春秋時代、三國志で言うヘイ州あたりから弘農に移り(強制?)、その地に陸渾国をつくる、と。で、晋の文侯に攻撃されて楚に逃亡。で、しばらく後にこんどはまたまた楚の荘王に攻撃される、と。この時点で二派に分かれてたのかなあ…。 陳留風俗伝では、陸賈はこの陸渾国子の子孫。たしかに非漢人の血が濃ゆいですね〜。 宮城谷作品では、北方の民族は化け物みたいに強い場合が多いですよね〜! 三國志の呂布が楽しみです(;^_^A
197: 2002/11/01(金) 21:58 玉川雄一 2001年12月27日木曜日 21時17分 えー、では陸曄の弟の陸玩(士瑤、278-341)。彼の方が兄より記述が多めです(^_^) まあ、かいつまんで言えば兄と似たような地位を歴任したようです。 奮武将軍の地位は病で辞したようですが、蘇峻の乱の鎮圧において兄と共に功を挙げ興平伯になったり。 尚書左僕射だの尚書令だの左光禄大夫だの開府儀同三司で散騎常侍−この時何度も辞退しようとして結局押しつけられた(笑)らしい−だの。 子の陸始が跡を嗣ぎ、侍中、尚書になったそうです。 んで、陸玩の今一人の子が陸納(祖言、?-394)。「少有清操、貞萬絶俗」だそうです(ってどういう意味?) 建威長史、黄門侍郎、本州別賀、尚書吏部郎、呉興太守… 太常、吏部尚書、奉車都尉、衛将軍。 何やら、謝安を迎えるのに「茶果」だけで質素に迎えようとしたら、「其兄子俶」が(謝安に)豪勢な贈り物をあげたとかで陸納がマジ切れしてしまい、四十杖ほどしばいたそうです。 おそらく、陸納の兄の子が陸俶というのでしょうか。またも新発見♪ その後、兄の子の陸禽が罪を犯したために自らも免官を求めるも降格で済んだりして、尚書僕射、(尚書)左僕射、散騎常侍、尚書令に。 最後は会稽王・司馬道子絡みでなにやらあったようですが、まずは天寿を全うしたかと。 で、子の陸長生は先に亡くなっており、弟の子の陸道隆が跡を嗣ぎました。陸道隆は元熙年間(419〜420年!)に廷尉になったそうです。 陸納には「兄の子」として陸俶、陸禽がいるようですが… 陸始の子と考えて良いのでしょうかね。 父の跡を嗣いだのが陸始ということで、陸始が兄で陸納が弟と考えてみました。その他にもいたのかはわかりませんが♪ また、陸納の跡を嗣いだのも… 「(陸納の子)長生先卒、無子、以弟子道隆嗣。」とあったのですが、陸道隆は「陸長生の弟の子」と解釈してみました。 この手の記述って多いんですよね。関係が微妙に分かりにくくて大変です(-_-;) さすがに、これで打ち止めのようです。 どなたか、これより後の時代の陸氏についてご存じありませんか〜?(^_^)
198: 2002/11/01(金) 21:59 ぐっこ 2001年12月28日金曜日 00時00分 「おさなくして清操あり…」までは分りますけどその後が…、俗を絶つ、のようなフィーリングで(;^_^A それにしても! まだ陸家が続きますか!? 一つ質問ですが、陸道隆の段階でだいたい何年くらいでしょう(;^_^A すくなくともこれだけの代に渡って人材を輩出し続けろとわ…!
199: 2002/11/01(金) 21:59 玉川雄一 2001年12月28日金曜日 01時06分 うに。 >陸道隆は元熙年間(419〜420年)に廷尉になった 420年とはズバリ、東晋最後の皇帝、司馬徳文が劉裕に禅譲して零陵王(すげェ封地ですな)となり、 晋王朝が滅亡した年です♪ ちなみに、翌年徳文さん殺されました(T_T) まさに大河! ああ、楊さん家の方がもっと凄かったんでしたっけ。
200: 2002/11/01(金) 21:59 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時13分 六朝以降の陸氏(といっても、陸賈や陸遜とのつながりは特に書かれていないので、たぶん赤の他人でしょう)ですが、、漢字字典『新字源』の「陸」のところを見ると、何人か記載されていました。 1,陸羽(りくう) 茶道の開祖。「茶経」を著す。 字は、、書かれていません。 2,陸九淵(りくきゅうえん) 南宋の学者。 字は子静、号は象山。朱子のライバル的存在。 3,陸贄(りくし) 唐・徳宗期の政治家。 字は敬輿、諡は宣。 4,陸元朗(りくげんろう) 唐初の学者。 字は徳明。 5,陸游(りくゆう) 南宋の詩人。 字は務観、号は放翁。生涯で数万という詩を詠んだとか。 ほかに陸機・陸雲・陸賈は書かれていましたが、陸遜がない!です。 このうち、割とあやしいのは、陸贄でしょうか、、。 NOBさん、すみませんが、「新唐書宰相世系表」をチェックしていただけませんか。
201: 2002/11/01(金) 22:02 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時35分 続いて、諸橋轍次氏の『中国古典名言事典』の人名索引から、、。 6,陸亀蒙(りくきもう) 唐末期(生没年の記載はないですが、 皮日休との親交があったという事から)の詩人。字は魯望、 号は江湖散人、天随子、甫里先生、バイ(さんずいに倍の右側)翁、 江上丈人。、、号が多い、、。 7,陸秀夫(りくしゅうふ) 南宋末期の人。文天祥・張世傑とともに 「三傑」といわれる。涯山の戦い(壇ノ浦の合戦を、さらに大規模 にした感じの戦い。この戦いで南宋は滅亡するが、史書には、戦いの後、 嵐に遭い、「舟覆る。世傑溺る。宋滅ぶ」と記載)の際、舟中で「大学」 を講じ、その後、入水した。
202: 2002/11/01(金) 22:02 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 22時58分 こうしてみると、陸という氏は、林などと同様、南方系なのでしょうか。
203: 2002/11/01(金) 22:03 NOB 2001年12月29日土曜日 00時15分 左平さまに御指名いただいたので、僭越ながら書かせていただきます(^-^; 陸贄は見事にビンゴでありました!宰相世系表によると 陸瑁―英(長沙太守)―カン(衛伯玉の名前と同名/晉の中書侍郎)―(間に4代)―文盛(齊の散騎常侍)―宣猛(字は觀明/六朝梁の宣威將軍)―潯(六朝陳の吏部侍郎)―(間に8代)―齊望(祕書監)―[シ霸](吏部郎中)―陸贄(字は敬輿/徳宗期の宰相) となっています。他にも陸元朗が、 陸續―稠(荊州刺史)―粛(丹徒令)―(間に9代)―鎮之(梁の給事中)―(文字化けで1カラム分意味不明)―雍(陳の豫章王の諮議)―元朗(字は徳明/秦王府の學士) ということで、いずれも既出のご先祖様にたどり着くことができました(^-^) その他の3名については探した限りヒットしませんでした。と、こんなところです。字はコピー&ペーストなので、旧字体のままで失礼します。
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