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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
230: 2002/11/02(土) 15:45 ぐっこ 2002年07月25日木曜日 21時41分 うーむ! もす様感謝! ……うー、言われてみれば確かに、どこかでその話を聞いたような来もする…どこだったか…(;^_^A 顔氏家訓は、たしか世説新語と同綴で一通り読んだと思うんですが、綺麗にとばしてました… 漢末の顔氏…ざっと正史人名辞典見ただけですが、顔俊(西平)、顔斐(斉北)、顔連(無錫)だけ…。 本当に顔回の子孫ならそう名乗るでしょうから、彼らに該当は内のかなあ…。 また後世の強引なこじつけなのかしら(;^_^A でもよりによって顔良を選ぶというのも…。文人で誰かいたのかなあ…
231:中根東竜 2002/11/28(木) 01:27 お久しぶりです。 >顔回の子孫が顔良 顔之推の子孫、顔真卿が自分の家の家系を書いた、 『顔勤礼碑』という石碑資料がありますが、 そこにはあっけなく「後漢末三国の顔氏の系図は、 よくわからない」と書かれていた記憶が・・顔良はつゆほども 出てこないんですよ。 というわけで、怪しい説だと個人的には思っています。 ・・まぁ、この『顔氏家訓』の説が後に流布したのか、 中国最大級(だと思う)の姓氏事典になる 『古今図書集成』姓氏部では、あっけなく顔回の子孫の分家は 顔良の臨沂顔氏であり、顔之推・顔真卿はその子孫である・・ と書かれてしまうのですが。
232:★ぐっこ 2002/11/30(土) 17:42 お久しぶりでっす。 あ、顔真卿が自分でそう言ってるわけですか…(^_^;) となると、『顔氏家訓』の「漢末 有 顔良」 って一文は、なぜ紛れ込んだんだろうか… 顔之推の代もだいぶ後なので、状況も資料の保存状況も だいぶ違うでしょうけど、本人がことさらにそう言うほど、 胡散臭い系図が手元に残されてたということか… もし、本当に顔良が顔回の子孫だったら、また袁紹軍団の 別の一面が見えてきそうで面白そうだったんですが…残念… ところで顔良って本当に臨沂の顔氏なんでしょうか…?
233:★玉川雄一 2003/10/18(土) 17:09 安定皇甫氏スレ立てようかと思ったんですけど自重して。 何かと紛糾する謎の「皇甫堅壽」について一考。 私は、少なくとも「堅壽」という一人であって、「堅」と「壽」の二人ではないと思います。 そして、この時代からしてやはり「堅壽」は字ではなかろうかと。 避諱処理がかかってるんではないかしら。(このレベルの扱いだと避諱があっても註が付かない場合がある) 原文によれば「堅壽亦顯名,後為侍中,辭不拜,病卒.」(漢籍電子文献の後漢書皇甫嵩伝)とのこと。 もし堅と壽の二人ならば、通例では「堅,壽亦顯名〜」というふうになるはずです。 標点本では、諱にしろ字にしろ別個の人物の名は「,」で区切るのが通例かと思われます。 また、劉表伝では「二子:[王宗],[王奇]〜」あるいは劉焉伝では 「焉四子,範為左中郎將,誕治書御史,璋奉車都尉,並從獻帝在長安,唯別部司馬瑁隨焉在益州〜」 とあるように複数人の子がいる場合には「○人」と最初に挙げている場合もあります。 やはり、「堅壽」は一人と見る方が妥当だったりしませんかね。 ちなみに私の「堅壽&叔献兄弟説」はもう一度世説新語(の註)を確認してみます。 なお、ある書物に載っていなくても別の書物から係累がたどれる場合もありまして、 例えば温恢は魏書温恢伝において子は温生一人しか記されていませんが、 晋書温羨伝によると、温恢の子としてもう一人温恭という人物が存在したことになります。 また同甘卓伝によれば、甘寧の子は呉書甘寧伝に載る甘カイの他に甘述がいたことがわかります。 その世説新語註のソースが信頼に足るものかどうかは、追って調査する必要がありますね。
234:★玉川雄一 2003/10/18(土) 17:16 しもた、肝心な所が読みにくくなってる!? カンマが半角じゃ分かりにくいですね。 「堅壽亦顯名」の部分、もし堅と壽が別人なら「堅,壽亦顯名」と表記されるはずだろう、ということです。
235:★玉川雄一 2003/10/18(土) 18:36 「『〜とは書いてない』は『〜ではなかった』の証明にはならない」のを承知で敢えて付け足しますと、 人名を並記する場合は「,」で区切る(標点本)の他に「並」などを挟む場合もあります。 「堅並壽亦顯名」のような。 もう一つの方向性としては、こういった表記方法(連続して書く)が 別の個所にも存在するかという検証もありますね。(気の遠くなるような話…) …ここまで来て思いだしたのですが、中華書局の二十五史シリーズって、 固有名詞(人名、地名、書名など)に傍線を引っ張ってあるんですよ。 で、この部分がどうなっているのかしら。 「堅壽」ひと繋がりで傍線を引いてあるか、「堅」と「壽」と区切って引いてあるか。 どなたか中華書局版をお持ちの方いらっしゃらないかな。
236:名無し 2003/10/18(土) 21:36 繋がってますよ>中華書局版
237:★玉川雄一 2003/10/18(土) 23:27 む、やはりそうでありましたか。 一つ繋がりとして解釈するのが妥当なのでしょうね。 名無しの救世主様、情報提供ありがとうございました。 今度は、皇甫叔献の存在のウラを取らねばなりませぬな。 まずはまた世説新語ひっくり返さないといかんのか… 楽しいけどしんどいですな。 やはり図書館借りじゃなくて自前で持たねばならん時が来るのだなあ。
238:japan 2003/11/02(日) 23:34 >玉川様 遅レスですが、文学第四の68の注に引用されている王隠の『晋書』ですね。 >皇甫叔献の存在のウラ 「祖父皇甫叔献はハ(さんずいに覇)陵令、父皇甫叔侯は孝廉に挙げられた」とありますが、 (1)父と子の諱に同じ文字が使われていることは99%ありえない (2)後漢〜晋代にかけての士大夫は<名が一文字+字が二文字>のパターンが大多数。 という二点から考えると、この「叔献」「叔侯」は字と見てほぼ間違いないでしょう。 「『叔』献」という字は上に兄がいたことを予想させます。 「堅壽&叔献兄弟説」とも矛盾しない考え方ですね。 (弟が『叔』なのに兄が『伯』『仲』でないというのは 荀揩フ息子達にも見られるパターンですし) 残念ながら正史の方の『晋書』皇甫謐伝には、 彼の父&祖父についての記述はありませんでした。 (曽祖父が皇甫嵩である旨は記してありましたが) 後は、張奐を自分の後任に推薦したという皇甫規や、 下辨の丞を務めた皇甫彦、安定太守の皇甫隆あたりも この一族の出身のようですね。 ヒソーリと活躍してるなぁ、安定の皇甫一族…
239:★玉川雄一 2003/11/03(月) 01:39 japanさんフォロー感謝です。やはり、字なのでしょうね。 しかし、安定皇甫氏は「叔」の字がよほど好きなのでしょうか(^_^;) 晋書に立伝された皇甫重の字も「倫叔」だし… 皇甫重は西晋時代に、また皇甫真なる人物が前燕〜前秦に仕えて活躍したそうですね。 学三のトウ艾スレに書いてあります。 http://gaksan2.s28.xrea.com/x/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=gakuenn&key=1012041484 やっぱ地道に頑張ってるんですねえ。
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