★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
284:★玉川雄一2004/11/20(土) 03:55
>>282
失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。
そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。

ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、
陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、
杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。
陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、
315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。
少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、
皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。

一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、
これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、
皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。
ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に
「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。

色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。
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